9月19日、アルメニアとの係争地ナゴルノカラバフで軍事作戦を開始し、翌20日に勝利宣言を行ったアゼルバイジャン。アルメニアと軍事同盟を結ぶロシアは同国を結果的に見捨てた形となりましたが、なぜプーチン大統領はアルメニアに救いの手を差し伸べなかったのでしょうか。今回の無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』では国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんが、ロシアが同盟国を助ける余力のない現状と、旧ソ連圏内で現在進行しつつある「ロシア離れ」について詳しく解説しています。
アゼルバイジャン―アルメニア戦争勃発!
昨日は、
イランがIAEAの査察を拒否した
イランはウラン濃縮度を高めていて、年来に核兵器を保有する可能性がある
イスラエルは、「イランの核兵器保有を阻止するために先制攻撃する」と公言している
それで、イスラエル―イラン戦争が勃発する可能性がある
「二正面作戦」を嫌うアメリカは、ゼレンスキーに停戦を要求するかもしれない
という内容でした。
【関連】“やぶ蛇”のトランプ。核兵器の開発意図なきイランを激怒させた代償
今回は、コーカサスの旧ソ連国アゼルバイジャンとアルメニアが戦争を始めたというお話です。「テレ朝ニュース」9月20日。
旧ソビエトのアゼルバイジャンが、アルメニアとの係争地ナゴルノカラバフへの攻撃を開始しました。
アゼルバイジャン国防省は19日、アルメニアとの係争地となっている
...moreナゴルノカラバフからのアルメニア軍の撤退やアゼルバイジャン人の安全の確保を目的として、「局地的な対テロ作戦」を開始したと発表しました。
地元メディアによりますと、ナゴルノカラバフ地域の首都とされるステパナケルトなどがアゼルバイジャンからの砲撃を受けていて、住民は地下に避難しているということです。
「ナゴルノカラバフ」とは何でしょうか?
国際的な位置づけは、「アゼルバイジャンの自治州」です。しかし、アルメニア系住民が多く、アゼルバイジャンからの独立、アルメニアへの編入を主張しています。
ナゴルノカラバフは、ソ連時代から、アゼルバイジャンとアルメニアの対立の火種でした。地図はこちら。
1985年、リベラルなゴルバチョフがソ連書記長になりました。規律が緩んだせいか、ナゴルナカラバフでアルメニアへの編入運動が激しくなっていきます。
1988年、アルメニアとアゼルバイジャンが、ナゴルノカラバフをめぐって衝突しはじめます。1991年9月、ナゴルノカラバフは独立を宣言しました(=アルツァフ共和国)。
※ ちなみに、ソ連が崩壊したのは1991年12月です
この「独立宣言」がきっかけで、アルメニアとアゼルバイジャンの対立は激化。1994年に停戦が成立するまで、約3万人が亡くなったそうです。
1994年後、ナゴルノカラバフは、事実上の独立状態にあります。しかし、その後も紛争はつづきました。2014年、2016年、2020年、2022年にも軍事衝突が起こっています。
対立の構図は基本的に、「ロシアはアルメニアを支援し、トルコがアゼルバイジャンを支援する」でした。
ちなみに、ロシアの主な宗教はロシア正教、アルメニアはアルメニア正教でキリスト教。トルコ、アゼルバイジャンは、イスラム教です。
日本のテレビでも時々引用される「SVR将軍」によると、トルコのエルドアン大統領は9月4日の首脳会談時、プーチンに、今回の戦争について伝えていたそうです。SVR将軍は、アゼルバイジャンがナゴルノカラバフを攻撃する前に、その話をしていました。
アゼルバイジャンは、何を目指すのでしょうか?アルメニアの同盟国ロシアはウクライナ戦争で忙しい。この機に乗じて、事実上の独立を保っているナゴルノカラバフ(=アルツァフ共和国)を壊滅させたいのでしょう。
旧ソ連の盟主の座を失うロシア
私は、ロシアがウクライナに侵攻を開始する前から二つの話をしていました。
プーチンがウクライナ侵攻を決断する可能性がある
プーチンがウクライナ侵攻を決断すれば、ロシアの戦略的敗北は不可避
実際、ウクライナ戦争の結末に関わらず、ロシアはすでに戦略的に敗北しています。これについて話し始めたら長くなるので詳細は語りません。しかし、一つ例を挙げておきましょう。
プーチンは、「旧ソ連は、ロシアの勢力圏だ」と考えています。そして、軍事同盟「集団安全保障条約機構」(CSTO)を主導している。加盟国は、ロシア、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタンです。
アルメニアはCSTOの加盟国。同盟国のアルメニアが、アゼルバイジャンと戦争をしている。ロシアは、アルメニアを助けないのでしょうか?
ロシア外務省のザハロワ報道官は「軍事行動を直ちに停止し、政治的・外交的解決の道に戻るよう」求めました。 (同上)
プーチンは、同盟国アルメニアを助ける気が全然ないのです。助ける気もないし、ウクライナ戦争が大変で助ける余力もない。
2022年9月にもナゴルノカラバフで紛争が起こっています。この時も、プーチンは、同盟国アルメニアを見捨てた。それで、アルメニアは、「CSTO意味ねえじゃん!」と激怒し、脱退を検討しはじめたのです。
CSTOからの脱退を検討しているのはアルメニアだけでなく、カザフスタン、キルギス、タジキスタンもです。CSTO6か国のうち、4か国が脱退を検討している。要するにCSTOは崩壊寸前だということです。これも、「ロシアの戦略的敗北」の一つでしょう。
「盟主」ロシアがボロボロなので、旧ソ連諸国はバラバラになっています。ウクライナ、モルドバ、ジョージアは、EUに加盟申請した。アゼルバイジャンは、トルコに走った。アルメニアは、アメリカ、フランスに接近している。中央アジア諸国は、中国に走り、「運命共同体をつくる」と宣言している。
今起こっているのは、「ソ連崩壊2.0」ということでしょう。戦術脳のプーチンは、「旧ソ連の盟主」でありつづけようとしてウクライナに侵攻し、逆にすべてを失ってしまったのです。
(無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』2023年9月20日号より一部抜粋)
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MAG2 NEWS...
世界中に名を馳せる、モード界の帝王イヴ・サンローラン。1958年にクリスチャン・ディオールのデザイナーとしてデビューしてから引退までの約40年間、世界のファッションシーンをリードし続けた彼の偉業をたどる大規模回顧展「イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル」が始まる。本展ではイヴ・サンローラン美術館パリの全面協力を得て、約半世紀にわたる彼の足跡を、110体のルックや、アクセサリー、ドローイング、写真を含む約300点で紹介する。「モードの帝王」と呼ばれた男の偉業を知る、没後、日本初の大回顧展。カクテル・ドレス-ピート・モンドリアンへのオマージュ1965年秋冬オートクチュールコレクション ©Yves Saint Laurent ©Alexandre Guirkinger幼い頃から絵を描くことが好きだったイヴ・サンローランは、絵本の装丁や挿絵を手掛けた後、1953年、17歳でパリに渡り、コンクールのドレス部門で入賞したことをきっかけに、クリスチャン・ディオールのアシスタントに。1957年にディオールが急逝した後、彼はチーフデザイナーに抜擢され、ディオールの新しい顔として成功を収める。1961年に彼は自身のオートクチュールメゾン「イヴ・サンローラン」を設立。翌年に発表されたコレクションでは、船乗りの作業着に着想を得たピーコートなどを発表し、大きな注目と称賛を浴びた。以来、彼は美術作品や舞台
...more芸術、そして日本にも影響を受けながら独自のスタイルを確立。モード界を席巻し続けた。全12章で構成された本展の中でも、特に注目したいのはサンローランの代名詞的存在となったマスキュリンスタイルだ。彼はタキシードやジャンプスーツ、サファリ・ルック、トレンチコートなど紳士服をヒントに、その快適さ、実用性を兼ね備えつつ、シンプルで優雅な女性らしいシルエットを生み出していった。単なる流行の服ではなく、当時の社会問題までも糧に、美しい作品へと昇華させてしまうのがイヴ・サンローランの先進性。服装によるジェンダー問題が叫ばれる現代だからこそ、なぜ今、彼の仕事が見直されているのか、本展を見ればよくわかる。【Check 1】紳士服からヒントを得た、新たな女性服のスタイル。イヴ・サンローランは、1960年代にパンツスタイルを自身のデザインに積極的に取り入れた。当時パンツスタイルはまだ男性のものという認識が根強かったが、服装が持つジェンダー意識を超越してデザインすることで、時代が求める新たな女性らしさ、エレガンスを生み出した。この頃、彼がプレタポルテ(既製服)へ参入したこともあり、サンローランが提案したスタイルは急速に拡大。他にもピーコート、パンツスーツ、トレンチコート、タキシードなど、紳士服を女性向けに改良したほか、ボーダーや紺のブレザー、ネイビールックなども女性らしくアレンジ。現代ではすっかり女性の定番アイテムとなっているこれらの服は、サンローランの普遍性を物語っている。ファースト・サファリ・ジャケット1968年春夏オートクチュールコレクション ©Yves Saint Laurent ©Sophie Carreイヴニング・アンサンブル1984年秋冬オートクチュールコレクション ©Yves Saint Laurent ©Nicolas Matheus【Check 2】芸術、歴史への愛を反映したルック。イヴ・サンローランはモンドリアン・ルックに代表されるような美術作品とファッションの融合を提案することで、伝統的なオートクチュールモードの世界に新風を吹き込んだ。また彼は読書や美術品の収集によって想像し、モロッコ、アフリカ、ロシア、スペイン、アジアなど遠い土地のイメージをデザインに織り込む。鮮やかな色彩や独特な形で表現された異国情緒は、サンローラン作品にとって不可欠な要素となっていった。アンサンブル1989年春夏オートクチュールコレクション ©Yves Saint Laurent ©Alexandre Guirkingerイヴニング・ガウン1995年秋冬オートクチュールコレクション ©Yves Saint Laurent ©Alexandre Guirkinger【Check 3】生涯をかけた舞台衣装。少年時代から演劇や舞台など生きた芸術に夢中だったイヴ・サンローランは、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画『昼顔』やジャン・コクトーの演劇『双頭の鷲』、ローラン・プティが芸術監督を務めたミュージックホールなど、生涯を通して様々な演劇や映画の衣装を手掛けた。衣装に刺繍やフェザー、金&銀細工など豪華な素材を施し、色彩を駆使したのが特徴。展示されたスケッチを見れば彼の画家としての才能にも驚くはずだ。ジャケット1977年に行われたジジ・ジャンメールのショー『ローラン・プティのショーに登場するジジ』のためのデザイン ©Yves Saint Laurent ©Sophie Carre女王のドレス(第1幕)1978年に行われた演劇『双頭の鷲』のジュヌヴィエーヴ・パージュのためのデザイン ©Yves Saint Laurent ©Sophie CarreWho’s Yves Saint Laurent?イヴ・サンローラン 1936年、フランス領アルジェリア・オラン生まれ。保険会社で働くフランス人の中産階級の家庭に生まれる。25歳の時にパートナーであるピエール・ベルジェと共に自身のメゾンを立ち上げてから、経営はベルジェが、創作はサンローランが担う共同体制でブランドを運営。2002年、引退を発表。ポンピドゥー・センターで最後のショーを開催。’08年、ガンで死去。享年71歳。オフィスでのイヴ・サンローラン、パリのマルソー大通り5番地のスタジオにて、1986年 ©Droits reserves「イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル」 国立新美術館 企画展示室1E 東京都港区六本木7‐22‐2 9月20日(水)~12月11日(月)10時~18時(金・土曜~20時、入場は閉館の30分前まで) 火曜休 一般2300円ほか TEL:050・5541・8600(ハローダイヤル)※『anan』2023年9月20日号より。文・山田貴美子(by anan編集部)https://ananweb.jp/news/505402/...