歌手の森口博子(57)が、4日放送のテレビ朝日系「徹子の部屋」(月~金曜午後1時)に出演。2017年に肺炎のため79歳で亡くなった恩師、作曲家の平尾昌晃さんとの思い出を語り、涙を見せた。 森口はデビュー前、のど自慢番組をきっかけに平尾さ…
オールマイティの才能
ステージに立ち、曲を作り、そして歌詞を書いた。遊び心にとんだ明るい人柄からハマクラさんの愛称で親しまれ、ヒット・メイカーとして数々の伝説を残した浜口庫之助(1917~1990)。
生まれは神戸。父親は貿易商だった。著書によれば、洋館の家にはガス燈がともり、裏庭にはテニスコートがあった。両親はクリスチャンで、日曜日には教会に行き、姉のピアノで讃美歌を唄った。音楽好きでハイカラな一家に育ち、5歳にして譜面が読めた。
小学校2年の時に一家で上京。旧制一高を目指すが、受験に失敗、親に内緒で音楽の道に走る。1936年、初めて就いた仕事は、新宿のダンスホールのバンド・ボーイ。煙草の使い走りもいとわなかった。
流行り始めていたラテンに影響を受け、ラテン・バンド「浜口庫之助とアフロクバーナ」を結成。マラカスを振りながら自らステージに立つ。
初舞台は「NHK紅白歌合戦」。それも1953年から3回連続出演を数えた。「国境の南」「セントルイス・ブルース・マンボ」「インディアン・ラブコール」。すべて英語でリード・ヴォーカルをとった。
ヒット・メイカーへの道
歌手としてようやく暮らしも立ち始めた頃、「英語の歌ばかり歌ってきた自分に空しさを覚えて」一念発起。作詞・作曲家を志して転身をはかる。
「ヒット曲には時代背景がある。ヒット曲は音楽が縦糸、時代感覚は横糸になって
...more 織り上げられたもの」という言葉があるように、時代を見る目が冴えていた。
1959年の作詞デビュー作は「僕は泣いちっち」。高度成長のただ中。めまぐるしく変わる世相のなか、今や東京に逃げられて泣くのは男、というおかしみがうけて、守屋浩の高音の魅力でブレイク。「泣いちっち」は流行り言葉にもなった。
さらには、1960年、安保の年にぶつけた「有難や節」。「デモはデモでもあの娘のデモは~」と時代を読み込んだ。
深読みすれば、この曲は、やけのやんぱち、ハマクラさんの昭和の「ええじゃないか節」だったのではないかという説も成り立つ。(註・「ええじゃないか節」慶応三年、幕末の世直しを歌う民衆運動)
そして1966年には、マイク真木の「バラが咲いた」。
「朝起きて、よい気分で庭を眺めていたら、緑のなかに赤いバラが一輪フワリと咲いているのが見えた。あ、バラが咲いたなと思って、そばにあったギターでつまびいたら、そのまま歌になった」
無理して作った歌に感激はない。手垢のついた言葉はもはや人の心をうたない、いち早くそれに気づいていた。「バラが咲いた」はフォークではないという奇妙なやりとりもあったが、浜口庫之助こそがシンガー・ソングライターのはしりだったという説もうなずけるところである。
「出会いから歌が生まれる。だが、つくる側に感動がなければいい歌にはならない」浜口には信念があった。
石原裕次郎との出会いは、1967年。たちまち気脈を通じあい、「粋な別れと」と「夜霧よ今夜も有難う」の2曲をいっぺんに書きあげ、数ある裕次郎ソングのなかでも、ひときわ印象深い名曲となった。
「愛のさざなみ」
島倉千代子との出会いは1968年。ヒットに恵まれずにいた島倉のために、浜口は救いの手を差し伸べる。作詞になかにし礼を起用、誕生したのが「愛のさざなみ」だった。
「この世の花」でデビューし、一世を風靡した島倉だったが、私生活に恵まれずにイメージも翳りがち。1968年、歌手生活15周年をひかえ、島倉は正念場にたたされていた。
この世に神様が本当にいるなら、優しく抱かれて私は死にたい
イメージを破る大胆な歌詞に浜口がポップス調のメロディをつけた「愛のさざなみ」が、LAレコーディングであったことは広く知られていた。
資料にも「浜口庫之助の助言により、バックの音は海外でレコーディングされた」とある。68年当時、日本のミュージシャン、まして歌謡曲の歌い手の国外レコーディングなど前例のないことだった。
浜口の著書「ハマクラの音楽いろいろ」には、島倉千代子が組んだミュージシャンとは、超一流のバック・バンド「レッキング・クルー」である可能性が高いと、推測形で書かれていたが、あらためて「愛のさざなみ」のジャケットのライナー・ノーツにあたってみれば、まぎれもなくハル・ブレインと明記されている。
ハル・ブレインといえば、セッション・ドラマーにして、スタジオ・ミュージシャン。60年代初頭に、フィル・スペクターのセッション・メンバーとなり、ロック、ポップスの膨大なレコーディングで活躍した天才ドラマー。ロック史上、最も多作とされる名ドラマーである。
エルビス・プレスリー「好きにならずにいられない」
ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」
カスケーズ「悲しき雨音」
ビーチ・ボーイズ「サーフィンUSA」
ハーブ・アルパート「蜜の味」
ディーン・マーチン「誰かが誰かを愛してる」
バーズ「ミスター・タンブリングマン」
フランク・シナトラ「夜のストレンジャー」
ママス&パパス「夢のカリフォルニア」
サイモン&ガーファンクル「ボクサー」
スコット・マッケンジー「花のサンフランシスコ」
カーペンターズ「クロス・トゥ・ユー」
パートリッジ・ファミリー「悲しき初恋」
そうそうたる顔ぶれが並ぶ。
「縮緬ビブラート」と呼ばれた島倉独時の節回しに、寄せては返すハル・ブレインのシャッフル・ビートがからむ名作は、こうして世に出たのである。
この曲は国内ランキングでも、2週連続で20位にランクされ、100万枚のヒットとなり、さらには第19回日本レコード大賞に輝いている。
たった一曲で、歌手ひとりを蘇らせることはできるのか? 浜口の挑戦は見事実を結んだのである。
勲章受章を断った人生
1981年、浜口は癌に倒れ、闘病生活が続くなか、1990年に叙勲(勲四等)の話が持ち上がる。
「文化庁から電話で打診があった、平成2年の夏のことだ。家内も友人たちも受けるようにすすめたが、ぼくはやっぱり断ることにした。『芸術家は肩書を持ったときに死ぬ』これが僕の信念だ」
「人生のラッパ手として、長い間吹き続けてきたのは、金が欲しいからでも、権力を得たいからでもない。ここで勲章を受けたりしたら、いままで僕がやって来たことは何だったのか、ということになる」
(「ハマクラの音楽いろいろ」より)
そして同じ年の12月、叙勲を断った男は、享年73年の生涯を閉じた。
(注)本コラムは2016年11月29日に公開されました。
『浜口庫之助メモリアルコレクション100』
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≪参考図書≫「ハマクラの音楽いろいろ」浜口庫之助(著)発行・立東舎 発売・リットーミュージック
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1960年代なかばに流行し始めたフォークソング調の歌謡曲「涙くんさよなら」や「バラが咲いた」を作ったのは、かつてはジャズ・シンガーとして人気があった浜口庫之助である。
浜口は1958年に作曲家に転向した翌年に「黄色いさくらんぼ」が大ヒットし、そこからは日本の音楽史に残る名曲を数多く世に出している。
ある日、朝起きて気分が良くて庭を眺めていると、緑の中に赤いバラが一輪だけ、ふわっと咲いてるのが見えた。「あっ、バラが咲いたな」と思って、そばにあったギターで「バーラが咲いた」と口ずさむと、そのまま歌になってしまったという。
大学生だったマイク真木が歌って大ヒットした「バラが咲いた」は、1966年の日本レコード大賞作曲賞に選ばれた。
その翌年、ジャズ・シンガーの後輩にあたる植木等の楽曲を頼まれたとき、浜口は「笑えピエロ」と「花と小父さん」を提供している。
1961年に大ヒットした「スーダラ節」以降、植木等は映画の『無責任男』シリーズが大当たりして爆発的な人気を誇っていた。
さらには1963年の秋から始まったナンセンスな洋傘のCM、”なんであるアイデアル”がウケて子供にも真似されるなど、当時は国民的スタ-ともいえる存在だった。
しかし、破壊的でナンセンスなギャグや、コミカルなクレージー・ソングによって、本来は真面目人間の典型だったにもかかわらず、本人とはかけ離れたキャラク
...more ターが独り歩きしていて、植木等は悩むことも少なくなかったという。
植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない!」(戸井十月著 小学館文庫)のなかには、こんな言葉が記されている。
僕は、こんなこといつまで続けていくんだろうと思っていたわけ。映画に出られたりレコードが出たりするのはいいんだけど、こんなことばかりやっていたら普通の歌を歌えなくなっちゃうんじゃないかって、いつも不安だった。
バンドマンでシンガーであることへのこだわりから意を決して、リーダーのハナ肇に一対一で会って、「グループから離れたい」との思いを相談したこともあった。
そんな植木等のためにつくられたのが、1967年5月に発売された初のソロ・アルバム『ハイおよびです!!』である。
そこには子供とのデュエットによるファミリーソング「パパと一緒に」や、大人のシンガーに向けてつくられた永六輔と中村八大による「万葉集」、そして浜口庫之助から提供された楽曲などが収録されていた。
そのなかでも好評だったのが「花と小父さん」で、これは「バラが咲いた」の姉妹編ともいえるフォーク調の佳作だ。
しかし、当時の大衆が植木等に求めるイメージと、叙情的でメルヘンチックな「花と小父さん」にはギャップがあった。したがってこの歌がテレビや映画で、植木等によって披露される機会は少なかった。
レコードとしてスマッシュ・ヒットした「花と小父さん」は、同じ渡辺プロダクションに所属する新人歌手、伊東きよ子がカヴァーしたヴァージョンだ。
それから5年後、やはり渡辺プロダクションに所属するアイドル・スターで、当時は空前の人気を誇った天地真理にもカヴァーされている。
さらに四半世紀が過ぎて植木等によるリメイク、裕木奈江とのデュエットが実現したのは、大瀧詠一のプロデュースによる『植木等的音楽』(1995年)である。
「花と小父さん」は、その後も森山良子や桑田佳祐、ハナレグミなどに歌い継がれてスタンダード・ソングになりつつある。なお、最近では藤圭子がカヴァーしたライブ音源が、YouTubeで公開されている。
(注)本コラムは2017年10月7日に公開されたものを、改題して一部に加筆したものです。
植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」
ハイおよびです!!
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ビクターレコードの創立50周年を記念する企画で、フォークソング・ブームを巻き起こしていたシンガー・ソングライターの吉田拓郎と作詞家の岡本おさみのコンビよって、若くして演歌のスターになった森進一に、書き下ろしの新曲を作るという案が通った。
アイデアを提出したディレクターの高橋隆は、入社してからまもない新人でキャリアはないに等しかったが、企画者として制作を担当することになった。
高橋が企画をのもとをするために岡本おさみ訪ねると、「今あるもので良ければ」と発売前の詩集『ビートルズが教えてくれた』のゲラ刷りを見せてくれた。その本の170ページに載っていた「焚火Ⅰ」という詩が、高橋の目に止まった。
何についての詩なのかを岡本に尋ねると、北海道で昆布採りの女の人の姿を見て書いたものだという。
北の街では もう
悲しみを 暖炉で
燃やしはじめているらしい
理由のわからないことで
悩んでいるうちに
老いぼれてしまうから
黙りとおした歳月を
ひろい集めて
暖めあおう
君は二杯目だね
コーヒーカップに
角砂糖ひとつ
捨ててきてしまった
わずらわしさを
くるくるかきまわして
通りすぎた夏の匂い
想い出して
恥ずかしいね
岡本はその頃、吐き出したいことをひとつの詩にするのではなく、いくつかの詩に分けて書き続けていた。そして書きたいことを出し切ったら、また別のことに取り掛か
...more るという方法をとっていたのだ。
高橋は「焚火Ⅰ」を歌のサイズに変えてほしいと頼んだ。そして「焚火Ⅰ」が吉田拓郎のもとに、岡本から電話で伝えられていった。
曲をつけてみた吉田拓郎は電話で、いくつかのことばを変えたいと言ってきた。「二杯目だね」が「二杯目だよね」に、「角砂糖ひとつ」が「角砂糖ひとつだったね」に改められた。
二人のソングライティングにおける共同作業は、電話を使って続いていった。「日々の暮らしはいやでも」の一行も、電話で話している最中に吉田拓郎から出てきたという。
こうして完成に近づいたのだが、歌うのが人気歌手の森進一である割には、「タイトルの焚火がちょっと変だなぁ、弱いなぁ」ということになったという。
その時に岡本がいくつか旅をしてきた日本の風景を思い出していて、ふっと浮かんだのが襟裳岬だった。詩集『ビートルズが教えてくれた』の「焚火Ⅰ」の前ページには、「襟裳岬」という昆布採りの女の人が登場する詩が載っていたのだ。
もしかすると名前の「もりしんいち」のなかにある「もり」が、タイトルの「襟裳岬(えりもみさき」へと誘発したのかもしれない。
「わずらわしさ」というキーワードでつながっていたふたつの詩がひとつになって、「襟裳岬」という新たな歌詞が誕生したのである。
「襟裳の秋はなにもない秋です」が、どうして「襟裳の春はなにもない春です」になったのかは、歌ってみればすぐに分かる。意味よりも響きが優先されて「秋」から「春」になったのだろう。
岡本は『ビートルズが教えてくれた』のあとがきで、うたのことばについてこう述べている。
読んでいい詩とうたのことばとは、もう境がないと言う人があるけれど、ぼくはそう思わない。どんな秀れた詩でも、メロディーをつけて、歌うと退屈な場合が多い。読む、あるいは見る詩と、歌う、あるいは聴くことは区別して、うたことばを創ってみたい。
作詞家は必ずしも詩人ではない。作曲家と組んでこそのソングライターなのだ。
『ビートルズが教えてくれた』のあとがきで、岡本は「ぼくはただ貧しい言葉を書くだけだが、その言葉からいろんな人との共同作業が広がるのでうたはおもしろいと思う」とも書いている。
楽曲は音楽化していく過程でミュージシャンやアレンジャー、プロデューサー、さらにはエンジニアなどともつながっていく。最後に歌手がうたって、歌は完成する。
人と人とのつながりが、うたを生み出すのである。森進一が歌ったテープを聴いた吉田拓郎は、「びっくりした~俺、トランペットを聴いた時、倒れたもん」と、アレンジには驚いたと語っていた。
活字より映像より、絵画より、はるかに強くうたによってぼくは影響を受けた。ぼくがこんなにもうたを好むのは、ビートルズを聴いたからであり、僕をこんなにさせてくれたのも、ビートルズである。
一九七三年九月 岡本おさみ
「襟裳岬」は大ヒットを記録し、1974年の第16回日本レコード大賞に輝いた。
ビートルズが教えてくれた―岡本おさみ作品集と彼の仲間たちとの対談
「森進一ベスト~歌手生活50周年記念盤~」
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1980年代の初め頃、一般的な日本の家庭ではテレビで音楽番組を見るのが当たり前でした。たとえば『ザ・ベストテン』『ザ・トップテン』『夜のヒットスタジオ』など、最新のヒット曲がかかるのを楽しみに見ていた記憶が蘇ります。そんな音楽番組で81年に、何度もオンエアされていた一つの楽曲がありました。あの頃、お茶の間には「♪くもりガラスの向こうは〜」という低音が響いていたのを覚えているでしょうか。俳優としても活躍している寺尾聰の大ヒット曲『ルビーの指環』(作詞:松本隆、作曲:寺尾聰)です。
この曲のアレンジ(編曲)を担当していたのが、アレンジャーの井上鑑(あきら)さん。井上さんは当時、100万枚を超える大ヒットアルバムとして知られる、今でも色褪せぬ名盤、大滝詠一『ロング・バケイション』(1981)のアレンジも手がけていました。
この2人のアーティストの大ヒットによって一躍その名が知られるようになった井上さんは、どのような経緯で人気アレンジャーとなり、そして今どのような活動をしているのでしょうか?
日本の70-80年代に生まれたシティポップが世界的な評価を受けている現在、その影の立役者ともいうべき井上さんに、学生時代からプロへ、そして2023年に発売されたソロアルバム『RHAPSODIZE』まで、アレンジャー・井上鑑の半生を振り返っていただきました。【聞き手・都鳥流星(音楽ライター)】
...more 「音楽一家」に生まれて
──この度はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。井上鑑さんと言えば、80年代に青春を送った方、あるいは幼少期にテレビで音楽番組を見ていた方であれば、誰もが知っているような名曲のアレンジを数多く手掛けられたアレンジャーとして音楽業界では有名ですが、本インタビューは井上さんのことをまったく知らないという方にも是非お読みいただきたいと思っております。
井上鑑(以下、井上):本日はありがとうございます、宜しくお願いします。
──まずは、幼少期の頃のお話からお聞きしたいのですが、ご家庭がすでに音楽に関係する環境でお生まれになったということですよね。
井上:はい。父親が音楽家でしたので。父は井上頼豊(よりとよ)といって、戦前からチェリストの先駆的奏者のひとりでした。母親も元々はヴァイオリンを弾いていたんですが、父と結婚してからは合唱の指導とか、父のマネージャーみたいなことをしていました。まあ、音楽はいつも家にあったという環境でしたね。
──そんな井上さんが「自分でも音楽をやってみよう」と思うようになったのは何歳くらいになってからでしょうか?
井上:高校生になってからですね。当時、僕は都立青山高校というところに進学したんですが、学園紛争が一番盛り上がっている頃で、1年生のときに学校がロックアウトになっちゃったんです。ロックアウトっていうのは、学校生活どころか、学校の出入口を有刺鉄線などで封鎖して中に入れないようにすることですね。そこから約半年くらい授業がありませんでした。
高校生になったときは全く音楽をやろうなどと思っていなくて、建築家になりたいとか思ってたんですけど、ずっと家にいてフラストレーションもありながら、当時の新しいジャズに興味を持ち、友達の影響を受けてそういう音楽を聴いたり、自分で遊びで弾いてみたりというところから、だんだん音楽の道に進むことを考えるようになりました。
──学校がロックアウトされている間に音楽への道を決められたんですね。
井上:そうですね。「音大の作曲科を受けます」っていうことを担任の先生に言ったら、すごく安心していました(笑)。担任は、僕にあまり期待はしていなかったけど、これで自分が責められることもないだろうと思ったんじゃないですか?
でもその年って、うちの高校から東大への入学率が、その前の学年の3倍くらいだったんですよ。つまり、学校の授業なんていらないっていうことを証明したのかもっていう。みんな受験生たちは「これは都合がいいや」という感じで、家庭教師や塾とかで受験に集中していたってことですね。
叔母・小池一子と大森昭男さんとのCM制作
──音大に進まれる前後で、すでに音楽業界との接点があったそうですね。
井上:実は僕の叔母はすごい人で、デザイナー・クリエイティブディレクターの小池一子(こいけ・かずこ)という人なんです。彼女は当時パルコの広告などを手がけていて、その関係で大森昭男さん(三木鶏郎門下のCM音楽プロデューサー)の事務所「ON・アソシエイツ」を紹介してもらったんです。
きっかけは、叔母が山口はるみさん(エアブラシによるパルコのイラストで著名)と永六輔さんの誕生パーティーで、キャロル・キングの「You’ve Got a Friend」を歌うから、ピアノの伴奏を作れって言われたことですね。大森さんが仕事をしているスタジオで、そのCM仕事の合間に録音することになって、日比谷の日活スタジオに行ったんです。
その時に初めて会話したんですが、大森さんが「こいつは使える」と思ったみたいで。それから「CM音楽を手伝ってくれませんか?」という話になって、大学に入って落ち着いたら事務所に遊びに来ないかって言われて。実際は高校生ぐらいの時から、浪人中も含めて、すでに出入りするようになってました。
──大森昭男さんといえば、当時のCM音楽界の重要人物ですね。
井上:そうですね。その時代はCMを作るということが1つの文化として活気があった時代でした。毎週必ず何かしらの録音をしていたくらいの感じで、時には毎日、何日も連続でということもありました。
印象に残ってるCMはいくつかありますけど、一番最初にやったのが、VAN JACKETという洋服屋さんのCMシリーズ。映像の方のプロデュースを操上和美さんがやっていて、カメラマンっていう職種への誤解していたイメージとは違って、ソリッドで知的ですごいなと思いました。
『井上鑑CM WORKS ON・アソシエイツ・イヤーズ』CD
あとは西武百貨店の一連のシリーズもやっていました。糸井重里さんのキャッチコピーに音楽をつけるっていう。流行りの音楽をつけるとかいうレベルじゃなくて、ディベートしながらCM音楽を作っていくみたいな感じでした。
大滝詠一さんとの運命的な邂逅
──大滝詠一さんとお会いするのも、大森さん経由だったんですね。
井上:そうです。大森さんが紹介してくれて、その後からの付き合いになります。シリア・ポール(インド国籍の歌手、元モコ・ビーバー・オリーブ)のアルバム『夢で逢えたら』でピアノを弾いたのが最初の大きなプロジェクトでした。その後、大滝さんの『ナイアガラ・カレンダー』(1977)などにも参加しました。
大滝さんのスタジオは東京・福生にある米軍ハウスを改造したスタジオ(福生45スタジオ)でしたが、とても本格的でした。大滝さんが何か色々セッティングして「ああでもない、こうでもない」ってやりながら録音していたんです。横田基地が近いから、米軍機が離着陸する時はノイズが入っちゃうので、トークバック(レコーディングブースの中に声を送ることが出来る器械)で「飛行機!」って言って、「ちょっと演奏するの待って」というのが日常でしたね。
大滝さんの仕事をしていた時は、いろいろな「これ何?知らない」っていうものがたくさんあって、そういうものに触れた経験はすごく大きな影響を受けていると思います。
大滝さんって文化人というか、全方位に詳しい人なんですけど、よくある狭いところにこだわってめちゃくちゃ詳しいっていう人じゃないんです。野球とか相撲とか何でも詳しかったし、一般的なトピックにもすぐに食いついてきて語ってました。
メールの返信もすごく早くて、5分以内に返事をするっていうテーゼを持っていたくらい。忙しい人なのか暇な人なのかわからない(笑)。新しい技術にも興味があって、ソニーのエンジニアと直接連絡を取って機材を改造したり。カメラをつけてリモートで打ち合わせしたりするのなんて、日本人で最初なんじゃないかなくらいに早くからやってましたね。
アレンジャーへの道と、実験的な音楽の時代
──井上さんがアレンジャーとしてやっていこうと決めたのはどういうきっかけだったんでしょうか?
井上:元々CM の仕事っていうのは、曲も作り編曲もするっていうところが基本なので、大森さんのところで仕事を始めた頃から編曲はやってました。その頃はまだ「専属」っていうようなイメージのある時代だったので、他のレコード会社の人から「大森さんと直接関係ない仕事もしてもらえますか?」みたいな話があって。大森さんは「全然いいじゃないですか」ということで、少しずつ他...