2016年の11月7日に、82歳でこの世を去ったレナード・コーエン。晩年は、ガンでの闘病生活を続けていた。健康状態の悪化にも拘らず、死の間際まで精力的に音楽活動を続け、亡くなる前月の10月にリリースされたニューアルバム『You Want It Darker』の他にも、2つの音楽プロジェクトと詩集の刊行を予定していたという。
1934年にカナダのモントリオールで生まれたレナード・コーエンが、“詩人”としてのキャリアをスタートさせたのは大学時代だった。カナダの名門公立大学に通いながら詩を書き始める。在学中、意外なことに彼の成績は英文学が最悪で、逆に数学が得意だった。さらにディベートに関しての能力は、学内でも最高レベルだった。
この頃から彼はギターを弾きながら詩の朗読を始めている。1956年、卒業を目前にした22歳で、初の詩集『Let Us Compare Mythologies(神話を生きる)』を出版。
しかし、地元モントリオールを中心とする狭い範囲での活躍に、どこか物足りなさを感じていた。そして、シンガー・ソングライターとしてのプロデビューを目指すべく、ビート文化の中心地ニューヨークへと旅立った。
コロンビア大学に入学すると、ビート族たちが集まるカフェに入り浸るようになったものの、最後までそこに馴染むことはなかった。名門出のお坊ちゃんを、筋金入りのビート族たちは受け入れ...moreてくれなかったのだ。
結局モントリオールに戻って、ジャズバンドをバックに“詩の朗読をする”という新しいスタイルに挑戦した。しかし、詩人としても朗読者としても、それ以上の活躍や収入は望めず、一時は父親の会社で工員として働く日々を過ごした。
その後、当時のガールフレンドと数年間、ギリシャのイドラ島という小さな島に住み着くようになる。そこは水道設備すら整っていない不便な島だったが、いつしか作家や画家、詩人たちが住み着き始め、後にはアレン・ギンズバーグやブリジッド・バルドー、ソフィア・ローレン、ついにはケネディー一族までもが訪れることになる有名人達の隠れ家的存在となった。
4作目の詩集『Parasites of Heaven』(1966年)に収められた「スザンヌ」が、同年11月にジュディ・コリンズによってカヴァーされる。
それがコロムビア・レコードでボブ・ディランのプロデューサーを務めていたジョン・ハモンドの目に止まり、アメリカでのコーエンのレコードデビューが決まる。
1967年、再びニューヨークヘ。そんなターニングポイントとなった時期に、同じカナダ出身のジョニ・ミッチェルと出会う。ミッチェルは、母国カナダ・トロントで歌手としての下積みを始め、21歳の時に結婚した夫と共にデトロイトに居を移し、コーエンと出会う1967年の初めに離婚し、単身ニューヨークに出てきたばかりの時期だった。
コーエンは彼女との出会った頃のことを、自伝にこう綴っている。
「あれは1967年の夏でした。ニューポート・フォーク・フェスティバルで出会った彼女とすぐにロマンティックな関係になりました。二人でカナダにある彼女の実家に行き、彼女の母親とも会いました。翌年には彼女がロサンゼルスのローレル・キャニオンに移ったので、僕らはそこで1ヶ月間一緒に暮らしました」
コーエンは、当時まだ歌手としてアルバムを発表していなかったが、コリンズが彼の作った楽曲「Suzanne」を歌っていたので、ソングライターとしての知名度は上がり始めていた。
それはスザンヌという女性の特徴を描写しながら、官能的な体験を霊的探求へと発展させていく物語。詩人として深い感性を持つコーエンのロマンティックな世界観に、ミッチェルは強く惹かれたのだ。
「以前、私がチャック・ミッチェルとの結婚を解消した時、彼は文学の学位を持っていたけれど、私は12年生で落第したきりで…彼は私のことを下に見ていたの。離婚した時、そうした不満がコンプレックスになっていたから、レナードと出会った時、私は彼から様々なものを学ぼうとしたわ」
二人の恋愛関係は数ヶ月で終わったものの、コーエンから受けた美意識や作詞の技法への影響は、長い間続いていくこととなった。
ミッチェルはコーエンと過ごした時期を振り返って、こんな言葉を残している。
「彼は私の想像力を刺激し、ソングライティングの新たなスタンダードを示してくれたわ。彼は別れた後も、私をより高い音楽的ステージに先導し続けてくれる存在だった」
コーエンもまた、ミッチェルとの関係について自伝にこう語っている。
「私たちの関係は友情が拡張したもので、その友情はいつまでも続くものである」
2016年の11月7日、レナード・コーエンは82歳でこの世を去った。奇しくも11月7日は、50年前に短い恋の季節を過ごしたジョニ・ミッチェルの誕生日(当時73歳)だった。二人が出会い、そして別れて約50年間、その友情は続いていたという。
男と女の友情に関しては、「ある」「ありえない」と賛否あるだろうが、彼らの間には確かに存在したようだ。その友情を通じて、コーエンから受け取った芸術と愛が、自身の中にずっと生き続けていることを、ジョニ・ミッチェルはこう表現している。
「まるで聖なるワインのように、私の血の中を流れているあなた」
<引用元・参考文献『レナード・コーエン伝』イラ・ブルース ナデル(著)大橋悦子(翻訳)/夏目書房>
<引用元・参考文献『ジョニ・ミッチェルという生き方 ありのままの私を愛して』ミッシェル・マーサー(著)中谷ななみ(翻訳)/スペースシャワーネットワーク>
You Want It Darker
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1971年から74年の間に、テリー・キャリアーはチェス・レコードのカデットから、チャールズ・ステップニーのプロデュース(または共同プロデュース)による3枚のアルバムをリリースした。
それらは素晴らしい出来であったにも関わらず、商業的に成功したとは言えなかった。そして1976年に突然、チャールズ・ステップニーが心臓発作により、45歳の若さでこの世を去ってしまう。
チャールズ亡き後、エレクトラ・レコードに移籍して、1978年と79年に2枚のアルバムをリリースするが、1980年にはそのエレクトラ・レコードとの契約も失ってしまう。
そうしてしばらくはライヴ活動を中心に音楽を続けていたテリー・キャリアーだったが、1983年には愛娘を養うために、音楽業界から引退して、コンピューター・プログラマーの定職についたのだった。
前編はこちらからどうぞ
「テリー・キャリアー(前編)~ソウルとフォークとジャズの狭間で」
しかし、1990年代に入ってから、テリー・キャリアーを取り巻く状況が変わり始めた。
音楽業界から退く少し前の1982年に、テリーは「アイ・ドント・ウォント・トゥ・シー・マイセルフ(ウィズアウト・ユー)」を、インディ・レーベルのエレクト・レコードから12インチ・シングルとしてリリースしていた。
この歌がある時、英国のアシッド・ジャズ・レーベルを主宰するエディ・ピラーの耳にと...moreまった。そして1991年には、アシッド・ジャズからのリリースが実現し、当時のレア・グルーヴ〜アシッド・ジャズのクラブ・シーンで話題となった。
そして1992年には、カデット時代の曲を集めて編集されたベスト盤『ザ・ベスト・オブ・テリー・キャリアー・オン・カデット』が、英国のチャーリー・レコードから発売され、英国でのテリー・キャリアー再評価の波が一気に盛り上がった。
1970年代のあの3枚のアルバムが、20年の時を経てようやく日の目を見たのだ。
Best Of Terry Callier On Cadet
1993年からは毎年英国でライヴを行うようになり、1996年には、エディ・ピラーと同じくレア・グル−ヴ・ムーヴメントの中心人物、ジャイルス・ピーターソンが主宰するトーキング・ラウド・レーベルと契約する。
また、英国の若い世代のミュージシャンからのラヴ・コールも増え、1997年には女性シンガー・ソングライターのベス・オートンの4曲入りシングルCDの中で、アルバム『オケージョナル・レイン』のラストに収められている「リーン・オン・ミー」をデュエットしている。ベスのヴォーカルを包み込むようなふくよかなヴォーカルが心地よい。
そうして最後のアルバムから約19年ぶりの1998年。満を持して、ニュー・アルバム『タイムピース』がトーキング・ラウドから発売された。
テリー・キャリアーこの時53歳、音楽の世界で見事な復活をとげたのだった。
Timepiece
アルバムからシングル・カットされた「ラヴ・テーマ・フロム・スパルタカス」は、1960年にスタンリー・キューブリックが監督を務めた映画「スパルタカス」のテーマ曲で、そのメロディーの美しさから多くのジャズ・ミュージシャンにカヴァーされている楽曲だ。
テリーが自作の詞をつけて歌ったこのカヴァーでは、シンプルで削ぎ落とされた演奏によって、彼のヴォーカルが持つ深みが際立った、スピリチュアルなバラードに仕上がっている。
カーティス・メイフィールドの名曲「ピープル・ゲット・レディ」からメドレーで歌われる「ブラザリー・ラヴ」の流れが美しい。もはやソウルもフォークもジャズもそれらの垣根を超越したところに歌の心だけがある、それで充分なのだと感じさせられる。
他にもウェイン・ショーターの名曲「フットプリンツ」に、自作の詞をつけて歌った曲なども収録されているこのアルバムのプロデュースは、最近ではノラ・ジョーンズやグレゴリー・ポーターなどを手がけているブライアン・バッカス。
洗練されたジャズのアレンジに、年齢を重ねてより深みを増したテリー・キャリアーのヴォーカルが、聴く人の心に灯りを灯すようなぬくもりが感じられる。音楽の神様は彼を見放さなかったのだ。
チャールズ・ステップニーが最も愛したヴォーカリストの一人である、テリー・キャリアー。生前チャールズが彼に繰り返し語っていたことがある。
「巷で今どんなものが流行っているのかを意識する必要はあるが、それに従っていてはダメだ。それよりも自分自身を、自分の個性を最大限にレコードに込めるんだ。10年後、15年後にそれを聴いたときにがっかりしたくはないだろう?」
チャールズの言ったとおり10年が経った後、英国のレア・グルーヴ・ムーヴメントが、テリー・キャリアーのヴォーカルの個性を見出した。そして音楽の神様は再び彼に微笑んだのだ。2000年代に入ってもますます活躍の場は広まり、2001年には初来日も果たしている。
その後もコンスタントにアルバムを発表しながら、ポール・ウェラーやマッシヴ・アタックなどとの共演を果たすなど精力的に音楽活動を行い、2012年10月にミュージシャンとしてその充実した生涯を終えたのだった。享年67。
アルバム『タイムピース』から「ラザレスという名の男」のライヴ演奏
Terry Callier『Time Peace』
Polygram Records
Amazon
参考文献:アルバム『オケージョナル・レイン』『タイムピース』のライナーノーツ、waxpoetics japan 15号チャールズ・ステップニーについてのテリー・キャリアーのインタビュー
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