さまざまな常軌を逸した不祥事が発覚し世間を騒がせた、中古車販売大手のビッグモーター。そのきっかけとなった保険金不正請求を巡り社長が辞任に追い込まれた損保ジャパンですが、両社の関係はいったいどのようなものだったのでしょうか。今回のメルマガ『ジャーナリスト伊東 森の新しい社会をデザインするニュースレター(有料版)』では著者の伊東さんが、損保ジャパンの歴史とその実力を紹介。さらに同社とビッグモーターの「共依存」とも言うべき関係性を明らかにしています。
プロフィール:伊東 森(いとう・しん) ジャーナリスト。物書き歴11年。精神疾患歴23年。「新しい社会をデザインする」をテーマに情報発信。1984年1月28日生まれ。幼少期を福岡県三潴郡大木町で過ごす。小学校時代から、福岡県大川市に居住。高校時代から、福岡市へ転居。高校時代から、うつ病を発症。うつ病のなか、高校、予備校を経て東洋大学社会学部社会学科へ2006年に入学。2010年卒業。その後、病気療養をしつつ、様々なWEB記事を執筆。大学時代の専攻は、メディア学、スポーツ社会学。2021年より、ジャーナリストとして本格的に活動。
どっちもどっち。ビッグモーターと損保ジャパンの「共犯」関係
ビッグモーターによる保険金不正請求問題で、損害保険ジャパンは9月8日、適切な経営判断ができなかった責任をとり、白川儀一社長が辞任すると発表。
また親会社のS
...moreOMPOホールディングスは、グループのガバナンス体制が機能していたのかを検証し、今後の調査結果を踏まえて経営責任を明確化する。
白川社長は会見で、昨年の7月の時点で追加の調査を行わず、いったんは中止していたビッグモーターとの取り引きを再開した判断は適切でなかったとし、
「大きな経営判断ミスをしたことに責任を感じている。一日も早い私の辞任が必要であると決断した」(*1)
と会見で語る。
損保ジャパンはビッグモーター側による自主調査や独自に行なったヒアリングなどをもとに、ビッグモーター側の主張をほぼ鵜呑みにする形で、組織的関与はないと結論づけた。
そもそもビッグモーターにおける板金事業における水増し請求といった不祥事事案については、保険業法上の報告義務がない(*2)。
損保ジャパンは昨年の時点では、監督当局に対する任意の報告であることを逆手に取り、最小限の説明で問題の幕引きを図ったとみられる。
損保ジャパンは過去にも不祥事を起こしていた。2005年9月には、損保16社による保険金の不当な不払いが大量にあったことが公表され、金融庁から業務改善命令の行政処分を受ける。
翌2006年には、保険金の不当な不払いや違法な勧誘などの問題があったとし、すべての店舗を対象の2週間の業務停止命令などの処分が下された。
その中でも山口支店は顧客名義の印鑑を大量に廃棄して証拠の隠滅を図ったとし、1カ月の営業停止命令を受けている。
当時の社長であった平野浩志社長は、最終的には辞職に追い込まれたがものの、ノルマ達成を社員に迫るメールを自分の名前で発信するなどの事実があったにもかかわらず、当初、自らは事件とは無関係として最後まで引責辞任を否定していた。
目次
極めて強い営業力。損保ジャパンの歴史と実力
もっと事故車を。ビッグモーターが利用したグレーな仕組み
損保ジャパンがビッグモーターに持ちかけた「ある提案」
この記事の著者・伊東森さんのメルマガ初月無料で読む
極めて強い営業力。損保ジャパンの歴史と実力
損保ジャパン(損害保険ジャパン)は、2002(平成14)年7月に「安田火災海上保険」と「日産火災海上保険」が合併してできた会社。同年12月には、経営再建中の「大成火災海上保険」を吸収合併している。
安田火災海上保険は損害保険会社の再編が始まる以前の1990年代まで、「東京海上火災保険」に次ぐ業界2位の損害保険会社だった。一方の日産火災海上保険は中堅の損害保険会社。
合併での損害保険ジャパン発足後も、しかし損害保険業界はさらに再編が進む。損保ジャパンも「東京海上ホールディングス」、「MS&ADホールディングス」との差を縮めるために、2010(平成22)年に「日本興亜損害保険」と経営統合。
この経営統合により、持株会社「NKSJホールディングス」を設立し、その子会社となる。
2014(平成26)年9月1日には損害保険ジャパンと日本興亜損害保険が合併。これにより、社名が「損害保険ジャパン日本興亜株式会社」となった。
しかし、「ジャパン」と「日本」といった同じ意味を持つ名詞が含まれていることや、「長すぎる社名」が問題となったため、2020(令和2)年4月には「損害保険ジャパン株式会社」(2代目)へと商号が変更。
略称や英文社名、ホームページなどは初代の損害保険ジャパン時代に使用されていたものが引き継がれている。損保ジャパンは合併前の安田火災海上保険由来という、極めて強い営業力もつ。
自動車保険では日産グループとの協力関係が強く、強い代理店営業力もあり、大きなシェアを確保した。そしてみずほグループ系でもあるため、法人顧客も多い。
損保ジャパンは売上高は東京海上日動火災保険に次ぐ2位の位置。以下、三井住友海上火災保険、あいおいニッセイ同和損害保険、トーア再保険とつづく。
なお、損害保険は、一定の額の保険金が支払われる生命保険とは違い、損害額により保険金の支払い額が異なる「実損払方式」が中心。そのうち、個人向け保険に自動車保険や火災保険、地震保険などがある。
もっと事故車を。ビッグモーターが利用したグレーな仕組み
ビッグモーター社と損保ジャパンの“癒着関係”は、旧安田火災時代だった1988年に始まる。ビッグモーターの保険代理店の登録や届け出を代理し、損保側の幹事社として「代理申請会社」を務めるようになったのが、損保ジャパンだった(*3)。
1997年にはビッグモーターの株式を取得。その後、ビッグモーターからの買い増し要請にも応じ、2016年まで保有した(*4)。
ビッグモーターへの社員の出向も2004年に始める。2011年には、損保ジャパンに合流する旧日本興亜損保に兼重氏の長男である兼重宏一氏が入社した。のちにビッグモーターの副社長となる人物だ。
ところが、ビッグモーターは2014年より損保ジャパンへの優遇を見直していく。旧損保ジャパンと旧日本興亜が合併したことで、ビッグモーターが取り扱う自動車保険のうち、損保ジャパンのシェアが8割を突破した。
そこでビッグモーターは自賠責保険の損保各社への割り振りを行う。損保各社は、事故にあった保険契約者に修理工場の一つとしてビッグモーターを紹介していた。
工場からすれば、仕事が得られ、契約者も自分で工場を探す手間が省ける。こういった行為は業界では、「入庫誘導」と呼ばれる(*5)。
ビッグモーターはこの仕組みを利用した。事故者の紹介の応じ、ビッグモーターで中古車を購入した人の自賠責保険を割り振る「配分ルール」を編み出す。
これには、他の損保に対し、もっと事故車を紹介してもらいたいという狙いがあったとみられる。
このことは、契約者本位とはいえない“グレー”な仕組みであるが、しかし業界トップの東京海上日動火災保険、3位の三井住友海上火災保険がこぞってこの入庫誘導に力を入れ始め、結果、3社の競争が激しさを増していく。
この記事の著者・伊東森さんのメルマガ初月無料で読む
損保ジャパンがビッグモーターに持ちかけた「ある提案」
しかし、損保ジャパンはこの競争激化というピンチを一層の“誘導強化”で乗り切ろうとした。それでも、他社の攻勢はやまず、30%を超えていた自賠責保険のシェアは20%台にまで下がった。
そこで損保ジャパンが目をつけたのが修理の査定であった。
そもそも保険を使った修理費がいくらになるのかを査定する際には、通常、「アジャスター」と呼ばれる損保の専門社員が工場を訪れ、見積もりが適正がどうかをチェックする。しかし、こうした手続きは一律ではない。
そして、損保ジャパンは修理工場を「S」「A」「B」「C」の4つにランク付けし、このうち「S」の一部には修理部分の画像と見積書の送付だけで済む「簡易調査」を認めていた。これは、
「保険会社と同程度の見積もり能力がある工場」(*6)
との評価だからだ。損保ジャパン側は、これを「完全査定レス」とうたう(*7)。
そして2016年には、損保ジャパンはビッグモーターに対し、すべての工場が将来的に簡易調査の対象になるよう提案。結果、ビッグモーターの工場には「完全査定レス」の工場が広がっていった。
しかしながら、このことが不正の温床となってしまう。損保ジャパンは、...
2025年の大阪・関西万博の会場や海外パビリオンの建設工事をめぐり、大阪府と大阪市は27日、建設を促進させるための取り組み方針をまとめた。海外パビリオンの建設について遅れが指摘される中、会場への工事…
2025年大阪・関西万博の海外パビリオンや会場施設の建設促進に向け、大阪府と大阪市は27日に府庁で開いた会議で、工事環境の改善策を示した。会場の人工島・夢洲(ゆめしま)にあるコンテナ置き場の一時移転などで物流車両を減らし、工事車両の渋滞を防ぐ。当初は万博の開催期間中に実施予定だったが、工事の集中を
9月7日の記者会見での「性加害問題の火消し」に完全に失敗し、社名変更も含めた二度目の会見設定に動いているとされるジャニーズ事務所。そもそもなぜこの問題は、告発者が相次いだにも関わらず事件化されることがなかったのでしょうか。今回のメルマガ『ジャーナリスト伊東 森の新しい社会をデザインするニュースレター(有料版)』では著者の伊東さんが、その裏事情を深掘り。同事務所と中曽根康弘元首相のただならぬ関係を白日の下に晒しています。
プロフィール:伊東 森(いとう・しん) ジャーナリスト。物書き歴11年。精神疾患歴23年。「新しい社会をデザインする」をテーマに情報発信。1984年1月28日生まれ。幼少期を福岡県三潴郡大木町で過ごす。小学校時代から、福岡県大川市に居住。高校時代から、福岡市へ転居。高校時代から、うつ病を発症。うつ病のなか、高校、予備校を経て東洋大学社会学部社会学科へ2006年に入学。2010年卒業。その後、病気療養をしつつ、様々なWEB記事を執筆。大学時代の専攻は、メディア学、スポーツ社会学。2021年より、ジャーナリストとして本格的に活動。
裏に中曽根康弘と音事協の存在。ジャニー喜多川の性加害問題で警察が「動けなかった」訳
ジャニーズ喜多川氏による一連の性加害問題を受けた開かれたジャニーズ事務所の記者会見からもうすぐ2週間。その後、大手企業を中心に同事務所との広告契約を打ち切る動
...moreきが波及した。
他方、食品メーカー「ネスレ日本」の元代表取締約社長CEOでビジネスプロデューサーである高岡浩三氏のFacebookへの投稿が波紋を呼んでいる。高岡氏は、
「正直言って、いったい何をこんなに騒いでいるのだろうか?という感覚でジャニーズ問題を見ている」
とし、
「クライアントサイドにいた私でさえ、ジャニー喜多川氏が元々性癖があってジャニーズ事務所を開設したという噂は、かれこれ20年以上前から噂として知っていた。メディア関係者も絶対私以上に知っていたはず。なぜなら、私が知ったのは業界関係者とメディアだからだ」
と投稿。さらに、
「私は、ネスレのガバナンスとコンプライアンス規定の観点から、キットカットと言えども一度もジャニーズのタレントをCMや販促に起用しなかった。私からすると、今回のジャニーズ問題はBIGモーター社と損保ジャパンの癒着問題と重なって見える」
と続けた。
筆者である私が喜多川氏についての問題を知ったのは、中学1年生(1996年)のときに遡る。父が購読していた、「噂の眞相」という月刊誌を興味津々に盗み読みしていたときだった。
当時、SMAPの森且行の脱退をめぐるジャニーズ事務所との攻防の“裏側”が「噂の眞相」に掲載されていたが、その際に喜多川氏自身が抱える問題も併記されていた。
「噂の眞相」は、その時期には、月刊誌総合雑誌で「文藝春秋」に次ぐ規模だったといはいえ、販路が限られ、今ほど問題は“拡散”しなかった。
ただ、「噂の眞相」は2004年に休刊したために、また当時のインターネットが未発達だったために、誌面内容がネット上でアーカイブされてこなかった。
そのため、とくにZ世代(1990年代後半から2010年生まれ)には、喜多川氏についての一連の性加害問題など知る由もなかったのだろう。
目次
訪米した美空ひばりの通訳も。ジャニー喜多川の正体
なぜ警察は性加害問題を事件化できなかったのか
裏に中曽根元首相の影。単なる芸能界の問題ではないジャニー喜多川の性加害
この記事の著者・伊東森さんのメルマガ初月無料で読む
訪米した美空ひばりの通訳も。ジャニー喜多川の正体
喜多川氏は布教のためのアメリカに移住した真言宗米国別院の僧侶である喜多川諦道氏の次男として、1931年10月23日、アメリカ・ロサンゼルスで生まれる(*1)。2年後の1933年に日本に来日。
戦時中には和歌山大空襲を経験した。幼少期の喜多川氏を社会学者の橋爪大三郎氏は、
「2歳でアメリカから日本に来たことを考えると、幼少期は英語もほとんどしゃべれず、排日移民法の差別の記憶はおろか、アメリカの記憶も全然なかったはず。
それでも、アメリカにいたことが同級生にバレればイジめられてしまうような時代ですから、苦労したんじゃないでしょうか。
終戦後の1947年には再びロサンゼルスのハイスクールに戻ったそうですが、そこでは日本人としてイジめられ、英語も必死に覚えないといけなかったでしょうから、こちらでも大変に苦労したと思います」(*2)
と分析する。
その喜多川氏は、1950年に訪米した美空ひばりや服部良一らの通訳を務めることになる。その経験が日本で芸能事務所開設を目指すきっかけにもなったという。
1952年に再び来日した喜多川氏は、駐日アメリカ合衆国大使館に陸軍犯罪捜査局の情報員(通訳の助手)として勤務。朝鮮戦争に従軍して戦災孤児に英語を教え、帰国後はアメリカ合衆国大使館の職員として働いた。
「戦後すぐの日本のショービジネスは米軍基地にありました。米軍の将校や兵士を相手にショーをすれば、一晩で当時のサラリーマンの月給2カ月分が稼げたのです。
美空ひばりさんや江利チエミさんも基地で歌っていたし、それをオーガナイズする人も多かった。
若いので初めは通訳などいいように使われていたかもしれませんが、ジャニー氏は基地に自由に出入りできたので、その時代に多くのコネクションを築いたのではないでしょうか」(橋爪氏)(*3)
なぜ警察は性加害問題を事件化できなかったのか
当時、喜多川氏が住んでいたのは、「ワシントン・ハイツ」と呼ばれた場所。現在の代々木公園一帯にあった、米軍住宅地である。
ここで、少年野球チーム「ジャニーズ少年野球団」を結成したその4人の少年(のちのジャニーズ)と62年に設立したのが、今のジャニーズ事務所だ。
とはいえ、喜多川の問題は、裁判で事実と認定され、国会でも議論された。しかし、なぜ警察も動けなかったのか。いや動けなかったのだ。
筆者が「ジャニーズ帝国崩壊」(鹿砦社)を出版した際に、ジャニーズ事務所に所属していた数名の被害者に取材している。そのうちの一人の元タレントは、ジャニー氏から受けた性被害のすべてを母親に打ち明けて、警視庁の所轄署に被害届を出しているが、受理されることはなかった。
当時、その少年は、「警察の方は『まさか、天下のジャニーズの社長がそんなことするわけがない』と相手にしてくれなかった」と語っている。もう一人の被害者少年には筆者が「所轄の警察の生活安全課に相談するように」とアドバイスしたが、警察からまったく相手にされなかったという。
1997年発売の前述の著書はジャニー氏の性加害問題だけでなく、芸能界と暴力団の交際についても触れている。そのことから出版後、知人を介して警視庁捜査4課の刑事を紹介されたことがあった。
筆者はその後まもなくから2011年までの間で、担当刑事を変えて3回に渡って芸能界と暴力団の関係をレクチャーしたことがあった。その結果、ジャニー氏の性加害について関心を持ち、事件化したいと意気込んだ刑事もいたが、それが実現することはなかった。
その理由について、芸能界の業界団体である音事協(音楽事業者協会)初代会長で芸能界とパイプがある故・中曽根康弘元首相の存在を挙げる刑事もいた。(*4)
この記事の著者・伊東森さんのメルマガ初月無料で読む
裏に中曽根元首相の影。単なる芸能界の問題ではないジャニー喜多川の性加害
今回の問題については、喜多川氏の行為に焦点が当てられるが、“ジャニーズ問題”を語るうえではむしろ喜多川氏の姉であるメリー氏にも注目をしなければならない。
なぜなら、業界内で事務所の実質的な社長は喜多川氏ではなく、メリー氏であるとみられたからだ。
「ジャニーさんはどんなタレントが売れるか、といった現場的な嗅覚は凄い。でも、経営者として事務所を運営していたのはメリーさんです。
ジャニーズ事務所と、その所属タレントと仕事をせざるを得ないテレビマンにとって、メリーさんの意向は『絶対』です。あの人が赤だと言えば、黒いものも赤になる。
誰も、面と向かって異など唱えられない。正真正銘の『女帝』なのです」(民放キー局ディレクター)。(*5)
そしてメリー氏は、中曽根康弘元総理と親交があり、橋本龍太郎元総理とも、住んでいたマンションが同じだったという縁で、自民党ともつながりがあった。
とくに、中曽根の影響力は甚大だった。というのも、日本の芸能界は戦後、自らの地位向上を目的とし、政権与党である自民党と接近し、庇護を受けることで、政治力を付けていった経緯がある(...