戦後政治の一翼を担ってきた社会党の結成から2日で80年となった。「平和と民主主義」を掲げたが、党内の路線対立が絶えず分裂を繰り返した。高度経済成長に伴う社会構造の変化や冷戦終結にも機敏に対応できず、次第に力を失った。1994年には自民党や新党さきがけと連立政権を組み、村山富市委員長が首相に就任。そ
村山富市元首相の死去は、戦後のイデオロギー対立の終焉を改めて印象づけ、高市早苗新内閣の誕生は、政治の新しい構造を示しています。メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者でジャーナリストの引地達也さんは、イデオロギーを超えた絆が国を動かした時代を知る者として、今また「連立」と「信頼」という言葉の意味を問い直しています。
イデオロギーを超えた連立の絆と破られたガラスの天井
村山富市元首相が死去した。
私が毎日新聞に入社した1994年に自民党、新党さきがけ、社会党の連立政権のもとに誕生した村山首相は、同年7月、国会の所信表明演説で「自衛隊合憲、日米安保堅持」を宣言し、日本社会党の自衛隊を憲法違反とし、日米安保に反対する方針を転換した。
新聞社内でデスクや先輩記者とテレビで国会中継を見ていた私は、先輩の面々が「これで本当に社会党がなくなるなあ」との話をしていたのを思い出す。
自民党に対抗してきた労働運動や部落解放運動等のイデオロギー闘争の中心でもあった存在がなくなる、という現実を突きつけられた瞬間だった。
しかしながら、今も後継の社民党は議席の確保が危うい状況の中で何とか議席を確保しているがが、始まった自民党と日本維新の会による連立政権が推進するかもしれない議員定数削減は、社民党の議席がなくなる現実が鮮明になってくるだろう。
新聞記者時代に支局勤務していた頃は、毎朝すべての新聞に
...more目を通すのが日常業務であるが、それに加え社会党の機関紙「社会新報」も閲覧し、社民党目線のこの新聞は私に社会の見方も教えてくれた。
支局記者として、バランス感覚を持つために、と考えていたが、論理性を備えていた言論と政策がそこに書かれていた。
同時に現実とは距離があることも感じていた。
論理だけでは政治は出来ない現実に言葉を与えてくれたのは社会党だったのかもしれない。
村山元首相が現実と理想の中で気丈にふるまっていた印象は、村山首相が退陣後にも自社さ政権に個人的な関心に続いた。
私が共同通信の鳥取支局に勤務していた時には、村山元首相の側近であり、内閣官房長官を務めた野坂浩賢氏を訪問した。
当時は政界を引退して地元の鳥取で過ごしていて、穏やかな好々爺の風情で昔話を聞かせてくれた。
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場所は当時、野坂氏が理事長を務めていた鳥取県米子市の病院だった。
鳥取で自衛隊基地の反対闘争を指導し、部落解放運動の先頭に立っていた闘志が政権の中枢に上っていくその不思議さ、保守と革新の融合の魔法には伏線があったことなど、直接確認できたのは面白かった。
これは他でも語られていることだが、鳥取での基地反対闘争を通じて当時、鳥取県警本部の警務部長だった亀井静香氏(後の自民党政調会長)と関係を築いたことや部落解放運動を通じて野中広務氏(後の自民党幹事長)とも通じていたことが、連立政権樹立に役立つとは当時は共に想像もしなかっただろう。
野中も亀井も連立樹立に重要な役割を果たし、共に自民党の重責を担う立場となった。
イデオロギーを乗り越えた人どうしの信頼関係があったのが、あの時の連立政権だった。
今回発足した自民党と日本維新の会の連立政権と高市早苗新内閣。
首班指名に向けた多数派工作に少々戸惑いを感じ、野坂と亀井、野中の話を振り返ってみると、今回の信頼関係はどのように築いたのだろうかと問いたくなる。
「タカ派」の女性首相の誕生には、「ガラスの天井」が破られた高揚感と保守性を懸念する声が錯綜する。
そこにはリベラルと保守という2つの立場から語り切れない現実がある。
岩手大学副学長の海妻径子教授は朝日新聞のインタビューでこう指摘する。
「タカ派の方が先にガラスの天井を破ったことを真摯に受け止め、女性が台頭できた『構造』を見ていかなといけません。それは翻って、リベラルはどうしてそういう構造が構築されないのか、ということを考えることになると思うからです」。
リベラルの巨星が逝き、保守の女性の宰相の誕生。
ここから始まることをまた胸に刻みたい。
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MAG2 NEWS
玉木雄一郎氏の「尻込み」も手伝って、日本維新の会との連立を実現させ政権の座を死守した自民党。自党存在感の演出を目論んでいた維新にとっても「成功」と言っても差し支えない今回の連立劇ですが、識者はどう見るのでしょうか。今回のメルマガ『小林よしのりライジング』では漫画家の小林よしのりさんが、過去に自民と組んだ数々の政党の末路を挙げつつ、維新を待つ悲惨な行く末を予言。さらに、天皇制を滅ぼしかねない高市政権に「宣戦布告」とも取れる言葉を突きつけています。※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:ゴーマニズム宣言・第582回「玉木るで、自民党が延命に成功!」
玉木った国民民主に救われた自民。ついに始まる天皇制を滅ぼす高市政権との戦い
先週号で書いたように、「時勢」は確かに訪れていた。あとはこの機会を逃さず時勢を捉えさえすれば、政権交代は実現していたはずだ。
【関連】高市早苗の失脚も麻生太郎の終焉もすべて必然。小林よしのり氏が語る「愛子天皇」実現へと向かう“時勢”の流れ
だが実際には、一方で感じていた懸念の方が的中してしまった。玉木雄一郎がその優柔不断さから、すっかり時勢を逃してしまったのだ。
高市早苗が自民党総裁に就任することが決まった当初、玉木は自民党との連立を模索していた。ところが10月10日、公明党が自民党との連立解消を表明、野党の連立が実現すれば政権交代が
...more達成される可能性が出てきた。
立憲民主党は野党の首相候補の一本化を目指し、その対象として玉木の名を挙げた。そして、それを受けて玉木はXで「私には内閣総理大臣を務める覚悟があります」と表明した。
この時点では、完全に時勢は玉木に向かっていた。ところが玉木は野党で連立を組むなら基本政策の一致が必要だとして細々と注文を付け、一方で自民党との連携の可能性も残すという「両天秤」の動きを繰り返した。
10月16日には玉木と公明党の斉藤代表が党首会談を行い、「政策面での連携強化」を発表。これには特に支持層のネトウヨたちが「公明党と一緒になる」「中国に配慮するのか」と猛反発し、玉木は火消しに躍起となった。
玉木は首相に担がれた後のリスクに尻込みして、完璧な条件を整えようとしたのだろうが、リスクの一切ない、完璧に安全なチャンスなんかあるわけがないのだ。
そうして玉木が迷走している間に、日本維新の会はまんまと自民党との連立に向かって突き進んだ。
それまでは立民・国民・維新での3者協議を重ねていたことから、玉木は維新が裏切るとは思ってもいなかったようで、維新に対して「二枚舌みたいな感じで扱われて残念」「自民党とやるんだったら最初から言ってよ」「したたかでも、公党間の話なので、出し抜いたり騙したりするみたいなことは、やめたほうがいい」と恨み言を言いまくった。
この言葉を読売新聞特別編集委員の橋本五郎は「政治家にあるまじき発言」と切り捨て、「いろんなことがあり得るんで、いろんな可能性を考えながら、自分の立ち位置を明確にする。早く教えてちょうだいと言うのは如何なものか」と批判した。
さすがはベテラン政治記者、政界は出し抜いたり騙したりが日常茶飯事だということを知り抜いており、「裏切るつもりなら最初から言ってよ」なんて世間知らずのボーヤみたいなことを言っている玉木に心底呆れたようだ。
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「自社さ政権」を思い出させる自民と維新の連立
ことここに至って、ついにネトウヨも玉木を完全に見限ったらしく、Xでは「玉木る」というネットスラングが急速に広まり、大きな話題になったという。
ネット内の定義によると「玉木る」とは「いいとこまで行くけど、最後に丸見えの地雷を周りから注意されても踏むこと」だそうで、ここぞという場面で誰の目にも明らかな判断ミスをして、手中にしかけたチャンスを逃してしまうという玉木の行動パターンを象徴的に表している。
もはや玉木に対しては、真面目な批判よりも揶揄・嘲笑の方が目立つような状態らしい。これで玉木は完全終了!国民民主党ももう長くはないだろう。
玉木はせっかくのチャンスを「玉木って」、全て逃してしまった。玉木がタマ切ったんだからしょうがない。タマキン切った玉木は首相にもなれず、支持者にも見放されて、次の選挙じゃボロ負け確実という状況になってしまった。
「チャンスの女神には前髪しかない」という古代ギリシアのことわざがある。一度逃したチャンスは、後で追いかけても決してつかめないものだ。
本当は政権交代が時勢だったのに、玉木は自民党の生き残り戦略に手を貸しただけに終わってしまった。本当にバカな男である。あまりにも酷くて、もう笑っちゃうしかない。もはや玉木がこんなザマになったということが今回一番面白く、ある意味痛快だったとも言える。
自民と維新は連立に正式合意、このライジングの配信日にも臨時国会が召集され、高市早苗が首相になる見込みとなった。しかも、衆院ではこれにあと2議席も加えれば与党が過半数に到達してしまう。
その上、維新と組んだのは自民にとってものすごいプラスとなる。維新代表の吉村には、若く清潔で誠実そうなイメージがあるから、自民党の悪党揃いのイメージが緩和されてしまうのだ。
もうコロナの時の「イソジン吉村」のことなんか人は覚えちゃいないだろうし、万博を成功させたというのも大きい。自維政権は相当に好感度が高くなるだろう。
それは31年前の「自社さ政権」を思い出させる。首相に担いだ社会党の村山富市も、新党さきがけ代表の武村正義も、いかにも善人そうな風貌をしていたから、それによって自民党の悪印象を弱め、政権のイメージアップに成功していたのだ。その点、自民党は自分が延命する術だけには非常に長けている。
一方の維新は議員定数の削減とかいろいろ条件を飲ませ、自分を高く売りつけて与党入りしたつもりだろうが、そういつまでも上手くは続かない。それは、社会党の末路を見れば明らかである。
自民党は昭和30(1955)年の結党以来、常に単独政権を維持していたが、平成5(1993)年、初めて下野した。
この年に行われた衆院選で、前熊本県知事・細川護熙が結成した「日本新党」を始め、自民党を離党した羽田孜のグループによる「新生党」や武村正義らの「新党さきがけ」が大躍進。とにかく「新党」であれば議席が取れるという風潮は、この時に始まったものだ。
この選挙で自民党は過半数を割り、3新党と社会党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合による「非自民・非共産」8会派の連立政権が発足し、細川が首相に就任。 発足当初の支持率は71%にも達した。
だが8会派の寄り合い所帯は最初から矛盾を抱えており、中でも日本の「社会主義国化」を掲げ「非武装中立・自衛隊違憲」を党是とする社会党と、他党との隔たりは大きかった。
そんな中、政治資金問題を追求された細川が、首相就任からわずか9カ月足らずで突然政権を投げ出した。
次の政権は「非自民・非共産」の枠組みを継いで羽田孜が首相となったが、それまでのゴタゴタもあり、社会党は連立政権から離脱。羽田政権はたった2か月の短命に終わった。
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なりふりかまわぬ政権復帰を目指す自民が使った禁じ手
そしてここで、なりふりかまわず政権復帰を目指していた自民党は、社会党と組んでその党首・村山富市を首相にするという禁じ手を使ったのだった。
まさか「社会主義国化・非武装中立・自衛隊違憲」の党と自民党が組むなんて誰も思ってもいなかったのだが、政権に就くためなら、そして党を延命させるためなら、なんでもやるのが自民党だったのだ。
こうして平成6年(1994)、自民・社会に新党さきがけを加えた「自社さ連立政権」が発足したのである。
首相になった村山は「自衛隊合憲」「日米安保堅持」と党是を180度転換、「非武装中立は政治的役割を終えた」と表明した。
そしてさらに「社会主義国化」も放棄し、党名を「社民党」に変更。あとは凋落の一途となった。
いまや社民党の国会議員は衆院1人、参院2人。選挙の度に政党要件が維持できるかどうかが最大の注目点となる政党に成り果てている。
もっとも、社会党が滅びるだけならまだよかった。どうせ社会主義政党なんか、冷戦終結とともに滅び去る運命にあったのだから。
問題は、自民党が自らの延命だけのためにそんなものを政権に就かせて、その党首を首相にしてしまったことだった。
阪神淡路大震災の際には、初動の遅れが被害を拡大してしまったし、「村山談話」の禍根は今なお根深く残っている。
自社さ連立政権は村山が首相を辞任した後、...
社会学者の上野千鶴子氏が2025年10月18日にXを更新し、17日に逝去した村山富市元首相について言及。「戦犯」という言葉を使って批判した。
韓国の李在明(イ・ジェミョン)大統領は17日、同日に101歳で亡くなった村山富市元首相について、「国民のための政治に献身する一方、周辺国との和解と共生のためにも格別の努力を傾けた」とフェイスブックに投稿し、弔意を示した。