「広島原爆」とは?

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【終戦の日】太平洋戦争は「過去」ではない。10枚のカラー化写真は訴える - 08月15日(月)07:00 

『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』に掲載された戦時中の写真2022年8月15日で終戦から77年を迎えた。戦時中にカラーフィルムは普及していなかったため、現存する写真の多くはモノクロだ。色彩が失われた光景は「歴史上の出来事」という印象を強く感じさせる。それでいいのだろうか?そんな問題意識から、人工知能(AI)の技術を使って戦前~戦後のモノクロ写真をカラー化する「記憶の解凍」プロジェクトが2017年から始まった。その成果の一部が2020年7月、『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』(光文社新書)として出版された。著者は東大大学院の渡邉英徳教授と、東大1年生(当時)の庭田杏珠さん。2人がAIを使ってカラー化してきた写真が収められている。渡邉教授は本の冒頭で、以下のように書いている。「カラー化によって、白黒の世界で『凍りついて』いた過去の時が『流れ』はじめ、遠いむかしの戦争が、いまの日常と地続きになります。そして、たとえば当時の世相・文化・生活のようすなど、写し込まれたできごとにまつわる、ゆたかな対話が生みだされます」■終戦を10枚の写真で振り返るハフポスト日本版では著者と出版社の許可を得て、『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』に掲載されたカラー写真から、敗色が濃厚となった1945年初頭から終戦にかけての様子を10枚の写真で振り返ることにした。日本列島へ...more
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「なぜ死なずに逃げたのか」ラバウルで生還した水木しげるさんに上官は言った【戦後77年】 - 08月14日(日)19:00 

日本の誰もが知っている妖怪漫画の傑作『ゲゲゲの鬼太郎』。作者の故・水木しげるさんは太平洋戦争に徴兵された際に、南太平洋の最前線で襲撃を受けた経験がある。十数人いた部隊は水木さんを残して全滅。ふんどし姿で海を泳ぎ、ジャングルを駆け抜けて、5日間かけて日本軍の陣地に生還した水木さん。彼を待っていたのは「なぜ死なずに逃げたのか」という上官の冷たい言葉だった。戦後77年を迎えるにあたり、水木さんの強烈な戦争体験を「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)などの著書から振り返ろう。■水木さんが送られた「ラバウル」とは?         「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)オーストラリアの信託統治領だったニューブリテン島を日本軍が占領したのは1942年のことだった。東端のラバウルに航空隊の基地が作られ、陸海軍合わせて約10万人の兵士が配置された。難攻不落が予想されることから、連合軍側からは「ラバウル要塞」と呼ばれた。しかし1943年2月、同じく南太平洋のガダルカナル島では激戦の末に日本軍が撤退。戦況は日本にとって不利になっていた。水木さんが陸軍の二等兵としてラバウルに送られたのは、その8カ月後のこと。旧日本軍ではニューブリテン島全体を「ラバウル」と呼んでいた。翌1944年2月中旬にはニューブリテン島の西半分は連合軍の手に落ちたが、アメリカ軍のマッカーサー大将が率いる連合国軍は、堅固なラバ...more
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〈戦後77年・さが〉看護学生、「平和の灯」リレー 小倉から長崎まで、佐賀3校もリレー - 08月12日(金)18:45 

長崎原爆で当初の投下目標だったとされる小倉(北九州市)から長崎市まで、看護学生たちが「平和の灯」をリレーしている。11日からは佐賀県内の学生も歩き、戦争と核兵器のない世界の実現を願った。 西南女学院大の中島俊介教授(72)の呼びかけで、看護学生らでつくる小さな平和運動連絡協議会が昨年に続き開いた。福岡、佐賀、長崎の3県の8校から64人が参加。福岡県八女市で6日、燃え続ける広島原爆の火を採火し「ナイチンゲール平和の灯」として、15日に長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に運ぶ。
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原爆が次に落ちるのは新潟市。そう判断した知事が命じた「原爆疎開」とは? 17万都市はゴーストタウンに - 08月11日(木)08:00 

新潟市の現在の姿(市役所の公式サイトより)終戦の直前、新潟市は人がほとんどいないゴーストタウンのような状態になった。広島、長崎に次ぐ原爆投下のターゲットと予想されたからだった。終戦4日前の1945年8月11日、新潟県知事は知事布告を出した。「新型爆弾が新潟市への爆撃に使われる公算が極めて大きい」と断言。町内会を通して一般市民の避難を命じたからだった。77年前に起きた、知られざる「原爆疎開」の歴史を紐解こう。■新潟県知事が布告。「本措置は敵の無辜の市民に対する殲滅的殺傷企図に、肩すかしを喰わせんとするものである」「原爆疎開」を命じる知事布告。「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」より 8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が投下された。当時は原爆の存在こそ一般には知られていなかったが、「広島と長崎は新型爆弾で全滅した。次は新潟だ」という噂が市民に広がっていた。当時の新潟市の人口は約17万人。新潟港は朝鮮半島から物資を輸送する拠点港だったが、戦争末期にアメリカ軍の機雷封鎖を受けて機能を失っていた。ただ、8月1日に近隣の長岡市がB29の大空襲で市街地の80%が焼失したのとは対照的に、新潟市は大規模な空襲をほとんど受けていなかった。広島への新型爆弾の情報が入った新潟県は、現地視察のために職員を派遣したが、途中の混乱でたどり着けず、内務省で得た断片的な情報をもとに報告書を提出した。これを受けて...more
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「長崎の原爆ドーム」なぜ解体されたのか? 浦上天主堂が幻の世界遺産になった理由【長崎原爆の日】 - 08月09日(火)08:00 

原爆で破壊された浦上天主堂。1945年9月13日撮影 (AP Photo/ACME/Stanley Troutman)8月9日は「長崎原爆の日」。長崎市内への原爆投下で、1945年だけで7万人以上が亡くなった。長崎では平和祈念像が犠牲者に黙禱を捧げるモニュメントとして知られているが、実は広島の世界遺産「原爆ドーム」に匹敵する原爆遺構が、かつて長崎市内に存在していた。爆心地からわずか500メートルの位置にあったカトリック教会の大聖堂「浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)」だ。もし現存していれば世界遺産になっていたことは確実だ。熱線と爆風で甚大な被害を受けるも、建物の一部が残っていた。原爆の悲惨さを伝える貴重な遺構で保存を求める声も多かったが、被爆から13年後の1958年に解体撤去され、鉄筋コンクリートの建物に作り直された。一体、何があったのか。歴史の闇に封印された「長崎の原爆ドーム」の謎を追った。■「東洋一の大聖堂」と言われた、かつての浦上天主堂とは?原爆投下前の浦上天主堂長崎市北部に位置する浦上地区は、戦国時代末期にイエズス会領になっていたこともあり、カトリックの信者が多い地域だった。その後、江戸幕府のキリシタン禁教令によって激しい弾圧を受けるも、地元住民はキリスト教への信仰を捨てず「隠れキリシタン」として明治時代まで信徒が存続していた。江戸末期から明治初期にかけて「浦上四番崩れ」と...more
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玉音放送の全文、現代語でどんな意味?「耐えがたいことを耐えて...」 - 08月15日(月)06:00 

昭和天皇=1935年撮影「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」1945年8月15日正午。昭和天皇がポツダム宣言を受諾し、終戦を告げる「終戦の詔書」を朗読した音声、いわゆる「玉音放送」がラジオで放送されました。玉音放送は漢語が多く使われ難解な文章だったため、意味をよく理解できなかった国民も当時多かったといわれています。昭和天皇は4分半の放送を通じて、国民に何を語りかけていたのでしょうか。玉音放送の現代語訳と原文(いずれも全文)を紹介します。なお、宮内庁は公式サイト上に音声を公開しています。※現代語訳は、『昭和天皇 玉音放送』(あさ出版)の著書がある麗澤大学の川上和久教授(政治心理学)の監修のもと、掲載しています。【終戦の詔書(現代語訳)】私は、世界の情勢とわが国の現状とを十分に考え合わせ、非常の手立てをもってこの事態を収拾しようと思い、私の忠義で善良な国民に告げる。私は政府に対し、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、四国共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。そもそもわが国民が健やかに、安らかに生活できるよう心がけ、世界の国々とともに栄えその喜びを共有することは、歴代天皇が手本として残してきた教えで、私も常に念じてきたところでもある。したがって、さきに、アメリカとイギリスの二国に宣戦布告した理由もまた実に、わが国の自存とアジアの安定を心から願ったためであって、他国の主...more
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三宅一生の偉大なる遺産と今後の課題とは? - 08月13日(土)18:59 

広島原爆投下記念日の前日である8月5日にファッションデザイナーの三宅一生(1938.4.22~2022.8.5)が84年の生涯を閉じた。死因は肝細胞癌だった。まさに巨星墜つ、の感がある。森英恵(1926.1.8~)が切り開いた海外における「ジャパニーズデザイナー」という存在を確固たるものにしたのが三宅一生だった。一生の天才的な発想による布たちとのアスペクトは数々の「名作」「傑作」を生み出し... このコンテンツは FASHIONSNAP.COM が配信しています。
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国連トップの心を揺らした紙芝居 被爆女性の「夢」と亡き娘への誓い - 08月12日(金)12:21 

 平和のために地道に続けてきた紙芝居の活動は国連トップの心も動かした。6日の「広島原爆の日」に国連のアントニオ・グテーレス事務総長、9日の「長崎原爆の日」に岸田文雄首相と対面した被爆者の女性は、「希望…
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広島にサヨナラ負けで「原爆投下された」 批判殺到YouTuberが謝罪「感情任せに使ってしまった」 - 08月09日(火)16:32 

プロ野球・阪神タイガースのファンだというYouTuberのトラヤマさんが、2022年8月7日に公開した動画の中で、6日の「広島原爆の日」に行われた広島対阪神戦で阪神がサヨナラ負けしたことを「原爆投下された」と表現し、批判を集めている。
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【長崎原爆の日】77年前の8月9日に何が起きたのか、写真とともに振り返る - 08月09日(火)07:00 

8月9日、長崎に原爆が投下されてから77年が経つ。広島に続き、人類史上2発目の原子爆弾が投下され、7万人以上が犠牲になった。核兵器の凄惨さを忘れないために、当時の写真や記録を振り返る。長崎市への原子爆弾投下に伴って発生したキノコ雲。米軍の爆撃機B29から撮影された。8月9日、何が起きたのか1945年8月6日、世界初の原子爆弾(ウラニウム爆弾)「リトルボーイ」が広島に投下された。その3日後の8月9日午前2時47分、太平洋に浮かぶ北マリアナ諸島のテニアン島からプルトニウム型の原子爆弾「ファットマン」を積んだ爆撃機B29「ボックス・カー(Bockscar)」が離陸した 。その前日の8日には、ソ連が日本に対して宣戦を布告し、翌9日未明にソ連軍が満州に一斉に侵攻していた。長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」。直径1.52メートル、長さ3.25メートル。重さ4.5トンのプルトニウム爆弾だった。投下の第1目標は福岡県・小倉(現在の北九州市)だった米軍の記録によると、ボックス・カー号は午前8時15分に屋久島に到着。午前9時44分、投下の第1目標であった福岡県の小倉市(現北九州市)に到達した。当時の小倉市には、西日本で最大級の兵器工場があった。しかし、小倉付近はもやと煙で覆われており、視界不良のため投下を断念した。原爆の投下は、レーダーではなく目視で行うことを厳命されていた。視界不良は、前日の八...more
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