琵琶湖博物館(滋賀県草津市下物町)が、県レッドデータブックで希少種に指定されている県の鳥「カイツブリ」の卵を人工的に孵化(ふか)させて育てることに成功し、幼鳥3羽を展示している。縄張り意識が強いカイツブリは、成鳥になると雌雄のペア以外では同居が難しく、仲良く水に浮かぶ幼鳥期だけの珍しい姿が人気を集
ギザのピラミッド近くにグランドオープンした博物館の開館式典は、多くの王族貴族の出席を得て華やかにおこなわれた。
子供のころ、茂みの中を走り回ったり草むらを転がったりして「服がひっつき虫だらけになった」という経験をしたかもしれません。
当時の幼い感覚では、「体中に種がくっつくから面白い。でも後で親に怒られるかな」くらいにしか考えていなかったでしょう。
ところが植物のことを学ぶにつれて、ひっつき虫とは「自ら移動できない植物が種子を散布する方法」だったと知ったはずです。
では、これらひっつき虫を実際に広く散布しているのは、どんな動物なのでしょうか?
東京農工大学大学院農学府に所属する佐藤華音氏ら研究チームは、動物のはく製模型を使用して、どの動物がひっつき虫を多く運んでいるのか調査しました。
その結果、体表面に付着するひっつき虫の量は、動物種や季節によって複雑に異なっていると判明しました。
研究の詳細は、2023年4月6日付の科学誌『Acta Oecologica』に掲載されています。
目次
「動物のはく製模型」でひっつき虫の散布方法を調査する付着する「ひっつき虫の量」は動物種や季節によって変化していた
「動物のはく製模型」でひっつき虫の散布方法を調査する
有名なひっつき虫たち。(左)コセンダングサ、(右)チヂミザサ / Credit:(左)Alpsdake(Wikipedia)_ひっつき虫、(右)Dalgial(Wikipedia)_チヂミザサ
「ひっつき虫」とは、動物やヒトに張り付く植物の
...more 種子の俗称です。
ひっつきのメカニズムは複数存在し、棘(とげ)や鉤(かぎ)で刺したり引っかけたりするものや、粘液を出して張り付くものがあります。
自ら移動できない植物にとって、ひっつき虫による種子散布は「分布域を広める唯一の機会」だと言えます。
子供の頃、服に張り付いた「ひっつき虫」は、単なるゴミや汚れの付着ではなく、植物たちの高度な生存戦略だったのです。
では自然界において、この生存戦略はどのように機能しているのでしょうか?
これまでの研究では、家畜やシカ類などの一部の動物種に種子が付着しているか確認する程度であり、野生動物による種子の付着散布の実態は国内外でほとんど知られていませんでした。
調査に用いた剥製模型。左からイタチ、タヌキ、ハクビシン、アライグマ、キツネ。 / Credit:佐藤華音(東京農工大学)_ひっつき虫は誰が運ぶ?~動物に付着する種子の量に影響する要因の解明~(2023)
そこで佐藤氏ら研究チームは、6種の中型哺乳類(アカギツネ、アナグマ、アライグマ、タヌキ、ニホンイタチ、ハクビシン)のはく製模型に車輪を付けて、5つの調査地点(ミュージアムパーク茨城県自然博物館の野外施設にある林の縁)の地面上を移動させました。
そして、それぞれの体表に付着する種子を回収・分析しました。
その際、動物種や季節(植物が生育している10月と枯死した12月)による付着量と付着部位の違いに注目しました。
付着する「ひっつき虫の量」は動物種や季節によって変化していた
はく製模型を押して地面上を移動させ、部位ごとに種子の付着量を調べる / Credit:佐藤華音(東京農工大学)_ひっつき虫は誰が運ぶ?~動物に付着する種子の量に影響する要因の解明~(2023)
10月と12月の付着調査の結果、植物7種、合計9033個の種子がはく製模型の体表に付着しました。
そして分析すると、「どの動物にどれだけひっつき虫が付着するのか」という疑問の答えは、植物種・動物種・季節の要素が複雑に絡み合ったものだと分かりました。
例えばチヂミザサ(ササに似た植物。赤いノギの先の粘液で付着する)に注目した場合、10月にハクビシンに付着する割合は、キツネやアライグマと同様に大きいものの、12月になると極端に小さくなりました。
これは、植物が枯死することで茎が倒れ、種子の位置(高さ)が変化したことが原因だと考えられます。
植物体の種子の結実している地面からの高さの分布 (左からイノコヅチ、チヂミザサ)。(オレンジ)10月の生育している状態、(青)12月の枯死している状態。 / Credit:佐藤華音(東京農工大学)_ひっつき虫は誰が運ぶ?~動物に付着する種子の量に影響する要因の解明~(2023)
基本的に種子の付着量には動物の「体毛の長さ」と「重複幅(種子が存在する位置と動物の体が重なる幅)」が影響します。
例えばイノコヅチ(長楕円形の葉を持つ植物。棘状の小苞で付着する)では、10月には動物の背丈の位置に種子が実っているので、多くの動物と接する機会が増え、結果手に種子の付着量は全ての動物で多くなっていました。
中型哺乳類6種に付着した種子の量(左が10月、右が12月)。黒い箱の幅は付着した種子の相対的な量を表す。 / Credit:佐藤華音(東京農工大学)_ひっつき虫は誰が運ぶ?~動物に付着する種子の量に影響する要因の解明~(2023)
しかし12月になるとイノコヅチが枯死して、種子の位置は地面近くまで下がってしまいます。
すると付着できる動物が制限され、結果として体毛が長い動物にだけ多く付着するようになっていました。
このように種子が付着しにくい季節でも、ひっつき虫は体毛の長い動物種になら低い位置からでも集めるてもらうことができるようです。
具体的には在来種のキツネやタヌキが冬にひっつきやすい候補となりました。
しかし、調査によると在来種よりも外来種であるアライグマやハクビシンの方が種子を多く散布していたのです。
これらの結果は、多様な構造を持つそれぞれの「ひっつき虫」が、自身の特性や季節の変化に応じて、種子を散布してくれる動物種を変化させていることを意味します。
そして基本的には環境を乱す存在と考えられる外来種が、種子散布者にとっては重要な役割を果たすこともわかりました。これは今後も検証すべき問題となるでしょう。
ひっつき虫の生存戦略は、私たちが考えていた以上に複雑だったようです。
今後、動物ごとに「付着した種子がどこに落ちるのか」研究することで、種子の散布過程をより深く理解できるでしょう。
私たちは子供のころ、体中にひっつき虫が付着するのを見て、無邪気に笑っていたかもしれません。
しかし実のところ、植物たちの複雑で狡猾な生存戦略に「幼少期のヒト」として、知らず知らずのうちに組み込まれていたようです。
全ての画像を見る参考文献ひっつき虫は誰が運ぶ?~動物に付着する種子の量に影響する要因の解明~https://www.tuat.ac.jp/outline/disclosure/pressrelease/2023/20230412_01.html元論文Seed attachment by epizoochory depends on animal fur, body height, and plant phenologyhttps://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S1146609X23000267ライター大倉康弘: 得意なジャンルはテクノロジー系。機械構造・生物構造・社会構造など構造を把握するのが好き。科学的で不思議なおもちゃにも目がない。趣味は読書で、読み始めたら朝になってるタイプ。編集者ナゾロジー 編集部...
旅行が重要な娯楽なのは現代の私たちだけではなく、江戸時代の人々も同様でした。
しかし交通が発達しておらず、社会システムも大きく異なる江戸時代の旅行は、現代とはかなり事情が異なっています。
果たして江戸時代の人々はどのような旅行をしていたのでしょうか? またどれくらい費用がかかったのでしょうか?
本記事では江戸時代の人々がどのように旅行をしていたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は奈良史学 Vol.27号, (2010. 01) ,p.32- 55に詳細が書かれています。
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旅行の準備伊勢参拝のついでに諸国漫遊する江戸時代の旅人何に費用がかかったの?
旅行の準備
歌川広重の「伊勢参宮・宮川の渡し」、当時の人々にとって伊勢参拝はまさに一生に一度のイベントであった。 / credit:wikipedia
江戸時代に旅行する場合は手形が必要であり、庶民が自由に旅行をすることは非常に困難でした。
手形とは現在でいうパスポートみたいなものであり、関所を通過するときに必要だったのです。
もちろん手形を発行するのは面倒であり、そう簡単に手に入る代物ではありませんでした。
しかし寺社仏閣への参拝を目的とする場合は非常に簡単に手形が手に入ったので、庶民の旅行は参拝旅行が中心だったのです。
当時の人々にとっての旅行とはお遍路をはじめとした信仰目的の要素が強いものとなったのです。
それ
...more 故旅の一部に娯楽的な要素が入り込むことはあっても、全体としては厳粛な雰囲気で旅が行われることとなり、今の私たちの想像する旅行とは全く異なっていたのです。
それに対して伊勢参拝は信仰目的もあったものの、娯楽的な要素も強いものであり、今の私たちが想像する旅行に一番近いものでした。
そのため当時は伊勢参拝が非常に人気であり、村や組合では伊勢講(伊勢神宮参拝のために結成した信仰集団)というものが作られていました。
伊勢講では旅費を集団で積み立てており、参拝する人は伊勢講の仲間内で平等にくじで決め、くじに当たった人が代表として参拝しました。
ちなみに代表者は伊勢神宮にて他の講の参加者の分のお祓いも受けるうえ、他の仲間たちに伊勢神宮の神宮大麻というお札をお土産として持って帰りましたので、くじに落ちた人がそこまで不平等感を持つことは無かったです。
このように伊勢参拝は現代のように旅行に行くことができない当時の人にとってはまさに一生に一度のイベントであり、それだけ力を入れていたのです。
そのほかにも家族や勤務先に黙って伊勢参拝に出かける「抜け参り」というものもあり、様々な形の伊勢参拝が見られました。
なお江戸時代の伊勢参拝をモチーフにした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の小説「東海道中膝栗毛」では主人公の弥次郎兵衛は「妻との死別」、喜多八は「勤務先からの解雇」という不運が続き、その厄落としとして伊勢参拝の旅に出かけます。
当然二人とも伊勢講には入っておらず、それゆえ二人は旅に出るために持っている財産を全て売却し、何とか資金を捻出しました。
弥次郎兵衛と喜多八の伊勢参拝は、現代で言うと、「仕事を辞めて世界一周旅行に出かける」と同じような感覚なのかもしれません。
伊勢参拝のついでに諸国漫遊する江戸時代の旅人
京都市の三条大橋の西のたもとにある弥次郎兵衛と喜多八の像、彼らは同時代の旅人の多くがそうであったように、伊勢神宮に参拝後江戸には戻らず、西へ足を延ばした。 / credit:ニッポン旅マガジン
それでは江戸時代の伊勢参拝はどのような行程で行われていたのでしょうか?
江戸近辺の農村に住んでいるある旅人の伊勢参拝の行程を見ると、東海道を下って伊勢神宮(現在の三重県伊勢市)に向かっています。
しかし一直線に伊勢神宮に向かっていたのではなく豊川稲荷(現在の愛知県豊川市)や熱田神宮(現在の愛知県名古屋市)などに参拝しており、それなりに寄り道をしています。
旅行のメインである伊勢では4日ほど使っており、外宮・内宮をゆっくり参拝するだけでなく、二見や鳥羽といった近隣の観光地にも足を延ばしています。
その後は近畿地方に進み、奈良や大坂の見物をしました。
大坂からは船に乗って四国へ向かい、金刀比羅宮(現在の香川県琴平町)や道後温泉(現在の愛媛県松山市)といった現代でもおなじみの観光地を訪問しています。
その後瀬戸内海を渡って本州に渡り、厳島神社(現在の広島県廿日市市)や錦帯橋(現在の山口県岩国市)を訪問しました。
再び近畿地方に戻り、大坂や京の見物をした後、今度は中山道を進み、善光寺(現在の長野県長野市)に参拝しています。
そして中山道を上って帰宅するのです。
江戸在住の庶民の典型的な伊勢参拝の旅程、伊勢神宮だけでなく、京・大坂や厳島神社、善光寺とまさに盛りだくさんであった / credit:Google社「Google マップ」
この行程は2カ月近くかかっており、まさに一世一代の大旅行となっています。
なお江戸時代の旅人は平均して一日30キロメートルから40キロメートル歩いていましたが、山道を歩いたり自分の体調がよくなかったりした場合はもっと少ない距離しか進みませんでした。
このように江戸時代は自由に旅行に行くことができなかったということもあり、伊勢参拝のついでに諸国漫遊をするということが通例でした。
実際に先述した「東海道中膝栗毛」でも主人公たちは江戸→伊勢神宮→京・大阪→金刀比羅宮→厳島神社→京・大阪→善光寺→江戸と旅行しており、先述した旅程とほぼ同じです。
何に費用がかかったの?
歌川広重の「木曽海道六十九次」に描かれた木賃宿、現在の感覚で言えば漫画喫茶宿泊に近い / credit:wikipedia
それでは伊勢参拝では、どれくらい費用がかかったのでしょうか。
まず現代の旅行でも大きな割合を占める交通費ですが、陸路はほぼ全て徒歩で行っているということもあり、船代を除き費用はほぼかかりません。
それでも体調が悪かったり、険しい道を進んだり、はたまた行程に遅れが見られるときなどは駕籠や馬に乗るなどしており、全く交通費がなかったわけではありません。
先述した一行の場合も一部区間で駕籠や馬を使っていますが、費用は決して安くなく、何度も使えるものではありませんでした。
また先述のように通行手形は伊勢参拝の場合は無条件で手に入れることができたので、そちらに費用がかかることもありませんでした。
一番多くの費用がかかったのは宿泊代です。
当時の宿は夕食と朝食がついている旅籠と素泊まりの木賃宿に分かれており、双方で大きく値段は異なりました。
旅籠の宿泊料金は130文~200文であり、木賃宿の宿泊料金は60文~80文です。
1文は経済事情の相違により単純に比較するのは難しいですが、現代の価値で30円ほどと言われています。
特に京や大坂といった大都市の場合は双方ともに費用が高く、出費がかさみました。
また昼食は旅籠で持参の弁当箱におにぎりなどを詰めて食べていたり、街道沿いにある茶屋で食事を取ったりしていました。
木賃宿に宿泊する場合は、米を購入して自分で調理していたのです。
さらに、特定の場所での案内者に対する支払いも取り上げられており、奈良観光で88文、大坂観光で164文、京都観光で200文それぞれ案内人に支払いました。
このように多額の費用がかかった伊勢参拝ですが、当時はクレジットカードやATMなどといった便利なものはなく、それ故、旅行に必要な財産を全て持ち歩く必要がありました。
そのため当時の旅人は費用を金貨や銀貨といった高額通貨で持ち歩き、途中の宿場町で銭貨に両替して使っていたようです。
なお江戸時代の東海道は武士が多く通るということで警備が行き届いていたことから比較的治安が良く、「旅行するのも命がけ」という状態ではなかったと言われます。
しかしそれでも夜間になると治安は悪くなりますので、基本的に旅人は日の出から日没までの間に移動を済ませ、宿に入るのが普通でした。
ちなみに1760年頃の相場では金1両に対して銭4000文であり、大体12万円程度です。
先述した旅行の旅費は5両程度かかったとのことですので、現代の価値に直せば60万円程度かかったことになります。
60万もの費用が必要で全て持ち歩かなければならなず、二カ月近くかけた大旅行となると、やはり現代でも現役引退後でなければ実行は難しいでしょう。
当時の人達にとって、人生で一度は経験したい旅行であり、重要な娯楽の1つだったとはいえ、伊勢参拝がなかなか出発の決心をするのが難しいものだったことはこの事実からも伺えます。
全ての画像を見る参考文献近世的旅観の形成: 伊勢参りの旅 ...
レナード・コーエンを世に知らしめることとなった「スザンヌ」。この曲にはモデルとなった女性がいたことを、レナード・コーエンは明かしている。
「スザンヌは私の友人の妻だった。アルマンド・ヴェランコートとスザンヌは、モントリオールの誰もが羨む、美男美女のカップルだった。私は、大好きだったモントリオールの街を描こうと思っていた。川を往き交うボート、水夫たちのための教会とも呼ばれる聖ノートルダム・ドゥ・ボン・スクール教会……」
ボン・スクール市場の隣に建つ教会は、船乗りの無事を祈願してきた場所で、聖マルグリット・ブルジョワの博物館が併設されている。だが、レナードにはスザンヌこそが聖女に見えたのかも知れない。
ヴェランコート夫妻やレナード・コーエンが暮らした1960年代中頃、この辺りには多くのビートニクスや詩人たちが集まっていた。
歌のモデルとなったスザンヌ・ヴァーダルは2008年、ガーディアン紙のインタビューで次のように話している。
「レナードはよく、ビストロという店で何時間も過ごしていました。そこはジャズに合わせて踊れるところで、黒のタートルネックに煙草、ボヘミアンの雰囲気そのものといった感じのところでした」
レナードとスザンヌ。ふたりは惹かれ合っていく。
♪スザンヌはあなたを
川沿いにある場所へと連れていく
ボートが往き交う音が聞こえ
いつまでもそこにいたい
そ
...more う思わせる場所
彼女は少し変わっているが
あなたにとっては
それがま魅力
彼女ははるばるチャイナから運ばれてきた
オレンジの入ったお茶をいれてくれる♪
そして、スザンヌはアルマンドのもとを離れ、川沿いのロフトで暮らすようになる。スザンヌはその日のことを覚えている。彼女がレナードを部屋に誘った日のことである。
「私たちは、ほとんど何も話しませんでした。ただ、彼のブーツの音と、私のハイヒールの音が不思議とシンクロしていました」と、スザンヌは振り返る。
「部屋の中に入っても、ほとんど会話はなかった」と、レナードは語っている。「ただ、ボートの往き交う音が聞こえた。そしてスザンヌは、紅茶を入れてくれた。コンスタント・コメントだった」
コンスタント・コメントというのは、中国産のお茶ではない。1945年にアメリカで発売されたオレンジの皮と甘いスパイスをブレンドした紅茶のブランド名である。レナード・コーエンは、紅茶については脚色を加えている。だが、それ以外は、現実のスケッチだと語っている。
♪彼女と旅に出たい
盲目の旅をしたい
あなたはそう願う
彼女もおそらく
信頼してくれているはずだ
あなたはその心で
彼女の完璧な体に
触れたのだから♪
「心で、彼女の完璧な体に触れる……あの状況では、それ以上のことはできなかった」と、レナード・コーエンは振り返る。
「あの時だけでなく、何度か、そういう機会はあったのです」と、スザンヌは告白している。
「でも、私たちは肉体的なレベルの恋人にはなりませんでした。心と心では恋人でしたけれど……レナードはとても魅力的な男性でしたし、彼をセクシーだという女性も少なくなかったのです。私は、たぶん、彼女たちの中の一人になりたくはなかった、のだと思います」
「スザンヌ」が完成すると、レナードは出来上がったばかりの歌を、ジュディ・コリンズに電話越しで聞かせた。そしてそのことがふたりを引き離すこととなる。
レナードはニューヨークへ向かった。そしてスザンヌはといえば、ダンサーを夢見て、ロスへ。
♪彼女と旅に出たい
盲目の旅をしたい
あなたはそう願う
彼女を信頼してもいいはずだ
あなたは思う
彼女はその心で
あなたの完璧な体に
触れたのだから♪
スザンヌがこの曲を耳にしたのは、ロスのベニス・ビーチだった。嬉しさと、哀しさと、懐かしさと、切なさと、言葉では言い表せない感情の波音を彼女は一人、いつまでも聞き続けていた。
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