1959年、トム・ウェイツの両親は離婚した。当時、彼はまだ小学生だった。
「親が離婚したとき、俺はまだ10歳だった。親父はそれから2回再婚して、母親もようやく私立探偵と再婚したよ」
トムは、父親のフランクについてこう述懐している。
「本当にタフな男だった。オレンジ園で眠り…反逆に次ぐ反逆、そんな生き方だった」
トムは、父の名前を自身が80年代に発表したアルバム(3部作)の歌詞の中に度々登場させている。さらには2004年に発表したアルバム『Real Gone』には、「Sins of My Father」という曲を収めた。
あるインタビューで、自分の父親のことを尋ねられたトムは、聖書を引用するかのようにこう切り返した。
「俺の親父だろうと、あんたの親父だろうと、親の罪は子に報う。わかりきったことさ」
両親が離婚すると、トムは母親と姉達とナショナルシティーに移り住んだ。サンディエゴの外れにあるその町は、面積のほとんどを海軍基地の広大な敷地が占め、常に何千人という兵士が移動の途中に立ち寄っていた場所である。
そんな町で育ったトムは青年に成長すると、頻繁に一人旅をするようになる。車で何時間もかけて父と母の間を行き来していたのだ。ひたすら高速道路を飛ばしているうちに、いつの間にか“路上を走り回ること”そのものが好きになっていったという。
「初めて自分の車を手...moreに入れたのは14歳の時だったよ。ある意味、アメリカの伝統みたいなもんで、免許を取ることが成人式の代わりなんだ。車を持っててもヒーター無しじゃ冬場はきつい。特に空気は離婚前のかみさんより冷たい時はね(笑)」
またトムは、あるインタビューで、自分の車遍歴を愛情たっぷりにこんな風に語っている。
「56年型マーキュリー、55年型ビュイック・ロードマスター、55年型ビュイック・スペシャル、55年型ビュイック・センチュリー、58年型ビュイック・スーパー、黒の54年型キャデラック4ドアセダン、65年型サンダーバード、49年型プリマス、62年型コメット…」
一台一台車種を慈しむように暗唱してみせるその姿は、まるで昔のガールフレンド名簿の朗読のようだ。
町を飛び出したいという切なる願い、父親とのドライヴという特別な想い出、そして10代の頃に抱いたジャック・ケルアックへの漠然とした憧れから、トム・ウェイツは路上に出て行った。
彼にとって路上=自由だった。
車を飛ばし、ラジオのつまみを回しながら何キロも走り続ける。聴こえてくるのはハンク・ウィリアムス、レイ・チャールズ、ハウリン・ウルフ、チャーリー・リッチ、ジェームス・ブラウン、レッドベリー、フランク・シナトラ、リトル・リチャード…。
「音楽を聴きながらカリフォルニアからニューヨークを目指すんだ。最新型フォードで朝早く出発してね。アメリカって国はとてつもなく広くて、車を一方向に向けたら、それから一週間一度もハンドルを切らなくたっていい。まるで空を飛んでいる気分さ(笑)」
若き日のトムは、路上のどこかで自分の知らない人生を垣間みた。道の果てのさらに向こう、学校からも居心地のいい郊外からも遠く離れた世界を見たのだ。ハイウェイ沿いで目にした光景は、トムの記憶に鮮明に焼きついていた…。
<引用元・参考文献『素面の、酔いどれ天使』パトリック・ハンフリーズ(著)金原瑞人(訳)/東邦出版>
ユーズド・ソングス:ザ・ベスト・オブ1973-1980
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1970年6月27日。英国の南西部突端にあるトゥルーロ・シティ・ホールのコンサートに、彼らはそれまでと違う名前で現れた。
ブライアン・メイがロジャー・テイラーらと結成したバンド「スマイル」は、1969年の9月にシングル「フェイス」を発売したが、まったくセールスにはつながらなかった。
失敗といってもいいデビューの翌年、バンドのベーシストにしてボーカルを担当していたティム・スタッフェルが脱退してしまう。そしてティムの代わりにバンドにボーカルとして参加したのが、ファルーク・バルサラ、後のフレディ・マーキュリーである。
フレディは、ティム・スタッツェルの同級生だった。そんなことから、「スマイル」のことはずっと身近で観てきていた。
「バンドは解散すべきではない」
そう言ったのは、バンドのファンでもあったフレディだった。そして彼は自らバンドに飛び込んでいったのである。心機一転、バンドの名前を変えることを提案したのも、フレディだった。
「クイーン」
フレディの提案には、当初、ブライアンもロジャーも気乗りがしなかった。フレディが言うように、クイーンという単語からは、様々なイメージが広がったが、その中の一つが「女装した男」という意味だった。
フレディの中では、すでにその後の「クイーン」のイメージができあがっていたのだろう。
その夜のライブは、成功のうちに終わる。バンドのギャラは5...more0ポンドであった。そして「スマイル」は、新しく「クイーン」と名乗り続けることになったのである。
翌1971年。ベーシストのジョン・ディーコンがオーディションで加入する。それからの活躍は、知っての通りだ。
ところで。
脱退したティム・スタッツェルはその後、模型の仕事を始めている。彼が関わった仕事のひとつが、機関車トーマスの模型作りである。
戦慄の王女(クイーンI)
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『ライトスタッフ』(The Right Stuff/1983)
宇宙がまだ見ぬ未知の光景だった頃。1957年10月、ソ連は遂に人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功。これを機に宇宙開発の幕が切って落とされた。そしてその一ヶ月後には、ソ連は早くも犬を乗せて2号を打ち上げ。
この立て続けの事態に一番衝撃を受けたのは、言うまでもなくソ連と冷戦状態にあったアメリカだった。“鉄のカーテン”の中の出来事を現実として受け入れざるを得なかったアメリカは、本格的な宇宙開発に取り組むべく1958年10月にNASAを設置。翌年には宇宙飛行に相応しい人材探しを始める。こうしてカプセルに人間を入れて宇宙に打ち上げるという、有人衛星計画「マーキュリー計画」が発表された。
これは軍事的レベルのプライドだ。「宇宙を制する者が世界を制す」。ソ連にこのまま先を越されてはたまらない。アメリカは躍起になって計画を進めた。飛行の候補に上がったのは、アクロバット芸人やサーファーなどの超越した体力の持ち主。冗談のようだが本当の話だ。最も適していたとされる空軍のテストパイロットたちは「無謀」「反抗的」という理由で当初は敬遠されていた。
だが、そんな綺麗ごとなど言ってられない。結局「マーキュリー計画」には奇妙な適性検査や過酷な訓練を経て、テストパイロットたちを含むプロの先鋭たちが選出された。アラン・シェパード(...more海軍)、ガス・グリソム(空軍)、ジョン・グレン(海兵隊)、ドナルド・スレイトン(空軍)、スコット・カーペンター(海軍)、ウォルター・シラー(海軍)、ゴードン・クーパー(空軍)ら、アメリカ初の7人の宇宙飛行士たちが誕生したのだ。
1961年1月、ケネディ新大統領が就任。“偉大なるアメリカの創造”が早急に求められていた時期。7人にはTVや新聞の報道の影響もあり、国民的ヒーローとして過剰な期待が寄せられる。一方で肝心のロケット自体の発射は爆発続き。不安な状況の中、7人は「実験室のネズミ、チンパンジー」と揶揄されながらも、“従順なるクルーカットのロボット”から脱却する。
1961年5月、ソ連のガガーリンに続き、アメリカのアラン・シェパードが宇宙に旅立つ。アランは国家的英雄に祭り上げられ、パレードや表彰、ホワイトハウスでの会食に招かれた。だが、ゴードン・クーパーによれば、偉大な開拓者は別の場所にいるという。その名はチャック・イェーガー。彼こそ自分が憧れる真のパイロットなのだと。「マーキュリー計画」はそんなゴードンの1963年5月の飛行で終了。宇宙開発は第2章へ突入していく……。
『ライトスタッフ』(The Right Stuff/1983)は、1979年にニュージャーナリズムの旗手である作家トム・ウルフが「ローリング・ストーン」誌で6年間連載された原稿をもとに発表した同名ベストセラーの映画化。“体制に従順”な宇宙飛行士たちのイメージからかけ離れた、“個性溢れる”真実を描いて大きな話題となった作品。
物語は、空軍のテストパイロットとして身を貫く“無名”のチャック・イェーガーと7人の“有名”な宇宙飛行士の対比を通じて、人間としての尊厳、苦悩する妻たちの姿、失敗する者の悲哀、時代の移り変わり、フロンティア・スピリットなどを追う。中でもイェーガーの存在は印象的だ。特にオープニングシーンが素晴らしい。
広漢としたモハベ砂漠に、馬に乗った男がただ一人現れ、丘の頂きで眼前に広がる自分の運命を一眸(いちぼう)する。輝くオレンジ色のX-1ロケットが、砂漠の滑走路に、飼い慣らされることのない半野生馬のように、エンジンから炎を噴き出して身を屈めている。
過去の古典的なウエスタンのヒーローが広大な宇宙の探検家としての未来に出逢う、というこのイメージで『ライトスタッフ』はその神話的な意図を明らかにしている。
──『ニューズウィーク』
空軍のテストパイロットであるイェーガーは、1947年に前人未到の音速の壁(サウンド・バリア)を破る。それから記録の更新という孤独な世界に生きる彼は、当然「マーキュリー計画」の最有力候補だったが、大卒でないなどという理由から対象外にされてしまう。しかし、イェーガーはそもそも国や政治のために利用されるモルモットになど興味はなかった。
“正しい資質”(ライトスタッフ)の具現者としてのイェーガーは、無限の空間が広がる空の世界に自らの夢、希望、ロマン、未来を追い求める。この映画の胸打たれるクライマックス。孤独なヒーローは、宇宙飛行士たちが盛大なパーティで祝福を受けている頃、閉鎖された空軍基地で、たった独り戦闘機で荒野の大空へ舞い上がる。そして高度計の針が限界に達した時、彼は成層圏の彼方の“宇宙”を人知れず垣間見ることに成功する。
妻たちの姿の相違も意味深い。宇宙飛行士たちの妻は、長年の不安な歳月に対する当然の報酬(ホワイトハウスでの名誉や会食)を受けようとする。しかし、イェーガーの妻グリニスは違う。夫と同様、一匹狼で挑戦者なのだ。彼女は言う。
「パイロットたちは恐怖を克服する訓練を受けているけど、妻たちには何もない。もし夫が死んだら、給料二ヶ月分の手当が支給されるだけ。でもいいのよ。空に夢を賭ける男。魅力的よ。私が我慢できないのは過去に生きる男達。過去の思い出に浸っている。もしあなたがそうなったら、私は家を出て永久に戻らない」
すると夫はこう呟く。
「俺は恐れを知らない男だけど、お前ばかりは死ぬほど怖い」
映画の中で、二人はパティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」で身を寄せ合う。現在のアメリカはこれを観て何を想うのか。
予告編
「テネシー・ワルツ」が流れるシーン。チャック・イェーガー役は2017年7月に亡くなった戯曲家/脚本家のサム・シェパードが演じている。
『ライトスタッフ』
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*日本公開時チラシ
*参考/『ライトスタッフ』パンフレット、『80年代アメリカ映画100』(北沢夏音監修/芸術新聞社)
*このコラムは2017年8月に公開されたものを更新しました。
評論はしない。大切な人に好きな映画について話したい。この機会にぜひお読みください!
名作映画の“あの場面”で流れる“あの曲”を発掘する『TAP the SCENE』のバックナンバーはこちらから
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「この曲は、完璧なポップソングであり、フレディが書いた偉大な曲の一つに数えられるだろう。そして私も、あのようなギターソロを弾けたことを光栄に思っている」
2008年。クイーンのギタリスト、ブライアン・メイはQマガジンのインタビューで、彼らの初期のヒット曲「キラー・クイーン」について、そう語っている。
クイーンにとって3枚目のアルバムとなる「シアー・ハート・アタック」(1974年)に収録されることになるこの曲は、日本での彼らの人気を決定づけ、初来日には多くの少女たちが歓声をあげたものだった。
だが、この歌は少女たちが熱狂するような歌ではなかった。
♪小奇麗なキャビネットにはモエ・シャンドン
ケーキでもお食べなさい、と彼女は
マリー・アントワネットのように言う♪
「キラー・クイーン」の冒頭でそう歌われる彼女は、フルシチョフやケネディでも拒むことができない魅力の持ち主である。その正体について、作曲者のフレディ・マーキュリーはニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に対して、次のように語っている。
「あの曲は、高級娼婦について書いたものだ。エレガントな女性でも、娼婦になるということだよ。もちろん、聴く人が自由に解釈してくれて構わないのだけれどね」
いつの時代でも、シャンパンは高級の代名詞なのだろうか。「ホテル・カリフォルニア」の女主人がピンク・シャンペンを愛したよう...moreに、キラー・クイーンは飾り棚にモエ・シャンドンを置いている。そして「ケーキでも。。。」と言うのである。
「ケーキでもお食べなさい」というのは、食糧難で今日食べるパンにも困っていた民衆に対して、マリー・アントワネットが言ったとされる言葉である。「ケーキ」と英訳された言葉は、フランス語ではブリオッシュ。ケーキではないが、通常のバケットより高価だということだろう。
マリー・アントワネットは、1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの間に、ウイーンで生まれている。
当時のヨーロッパでは、王家同士の政略結婚がさかんに行われていた。そしてマリー・アントワネットも、後のフランス皇帝ルイ16世のもとに嫁ぐことになる。だが、革命の波に呑み込まれるようにして、彼女はギロチン台に向かうことになるのである。
「ケーキでも。。。」という言葉は、マリー・アントワネットが語ったものではないことが、今ではわかっている。だが、革命の波は、皇帝と王妃を悪者に仕立てる必要があった。今でいうところの、フェイク・ニュースである。
フルシチョフやケネディーに対して、どんな女性が近づいていったのかは、わからない。だが今日でも、ハニー・トラップは仕掛けられ、フェイク・ニュースによる情報戦は過熱する一方である。
♪彼女はキラー・クイーン
火薬にして、ゼラチン
レーザー光線つきダイナマイト
君の心を吹き飛ばすこと
保証付きだ♪
我が国の政治家、役人には、改めてこのクイーンの名曲を聴いてほしいものである。
シアー・ハート・アタック
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「彼は僕がなりたかったものすべてを体現していた」
フレディ・マーキュリーがもっとも尊敬する人物の一人として挙げているのが、ジミ・ヘンドリックスだ。
フレディの本名はファルーク・バルサラ。生まれはアフリカ東部の国、タンザニアのザンジバルという小さな島だが、両親はインド出身でしかも2人ともペルシャ人の血を引いているという、やや複雑な経歴を持っている。
海が美しく、世界有数のリゾート地として知られるザンジバル島で幼少期を過ごしたフレディだったが、両親はこの島ではフレディに満足のいく教育を受けさせることは出来ないと考え、故郷であるインドにある寄宿学校にフレディを入学させることにする。
家族から遠く離れた地に独り送られたフレディだが、そこで類まれな才能を発揮し始めた。学業最優秀賞を受賞するほど成績が優秀で、しかもスポーツでの活躍もめざましく、特にボクシングなどの個人競技が得意で学校の卓球大会では優勝しており、文武両道賞も受賞している。
また、ピアノを習いはじめたのもこの頃で、その上達ぶりは目を見張るものがあった。自分が特別な人間であるというスター的な感覚は、この時期に養われたのかもしれない。
ところが思春期を迎えた頃から学業への興味を失いはじめ、美術を残して成績は軒並み下がっていく。それは音楽や芸術への関心がより強くなったことの表れでもあった。
1963年には家族のいるザ...moreンジバル島へと戻ったフレディだが、翌年には家族でロンドンへと引っ越すことになる。クーデターが勃発したのだ。流血のザンジバル革命と呼ばれるこのクーデターによって多くの死傷者が出る中、フレディの家族は命からがらロンドンへと逃れるのだった。
新天地ロンドンで美術大学に通いはじめたフレディだが、街ではビートルズやストーンズを筆頭にロックという新しい音楽が溢れかえっていた。他の若者たちと同様にロックに夢中になったフレディだが、中でも虜になったのがジミ・ヘンドリックスだった。
ジミがロンドンへとやってきたのは1966年、フレディが20歳の頃だ。ニューヨークのクラブで演奏していたジミは、アニマルズのチャス・チャンドラーにその才能を見出されてロンドンにやってくるとすぐに注目を集め、翌1967年4月にリリースしたデビュー・シングル「ヘイ・ジョー」はいきなり全英4位のヒットとなった。
その常識はずれな卓越したテクニックにプロのミュージシャンをはじめ多くのロックファンが度肝を抜かれたが、フレディの心を掴んだのは、音楽はもちろんのこと、ジミのパフォーマンスとファッション、そしてスター性も大きかった。
「彼のライヴがあれば国中を追っかけて回った。ロックスターに必要なものを本当にすべてそなえていたんだ。スタイルも、存在感も。何も無理する必要がなかった。彼がただステージに上がるだけで、会場全体がわっと湧くんだ」
クイーンのドラム、ロジャー・テイラーが聞いたところによれば、フレディはジミが行く先々を追いかけて14日も連続でライヴを観に行ったという。
学校でもフレディはジミのことばかり考えており、授業中にジミの肖像画をスケッチしたり、教室で物差しをマイクに見立てて、「パープル・ヘイズ」を歌ったりエアギターをしたりしていた。
大学ではイラストレーションの勉強をしていたフレディだが、卒業すると音楽を本業に選ぶ。そしてまもなくクイーンのメンバーとなるブライアン・メイと出会うのだが、ブライアンははじめてフレディの家に行ったときのことをこう振り返っている。
「その日の大半は、ジミ・ヘンドリックスがどうやってスタジオでレコードを作っているのか、隅々まで分析してたよ。フレディの持ってたダンセット社のレコード・プレイヤーでビニール盤を聴きながらね」
ギターが大して弾けなくとも、ジミ・ヘンドリックスから吸収できるものはたくさんあった。パフォーマンスからファッション、スター性、そして音作りにいたるまでをジミから学んだフレディ・マーキュリーは、やがてクイーンとともに自らもロックスターとなるのだった。
Are You Experienced [Analog]
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