「マーキュリー」とは?

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トム・ウェイツOl’55を聴きながら〜父への想い、若き日の路上への憧れ…そしてハイウェイ沿いで目にした光景 - 12月09日(火)17:00  TAP the POP

1959年、トム・ウェイツの両親は離婚した。当時、彼はまだ小学生だった。 「親が離婚したとき、俺はまだ10歳だった。親父はそれから2回再婚して、母親もようやく私立探偵と再婚したよ」 トムは、父親のフランクについてこう述懐している。 「本当にタフな男だった。オレンジ園で眠り…反逆に次ぐ反逆、そんな生き方だった」 トムは、父の名前を自身が80年代に発表したアルバム(3部作)の歌詞の中に度々登場させている。さらには2004年に発表したアルバム『Real Gone』には、「Sins of My Father」という曲を収めた。 あるインタビューで、自分の父親のことを尋ねられたトムは、聖書を引用するかのようにこう切り返した。 「俺の親父だろうと、あんたの親父だろうと、親の罪は子に報う。わかりきったことさ」 両親が離婚すると、トムは母親と姉達とナショナルシティーに移り住んだ。サンディエゴの外れにあるその町は、面積のほとんどを海軍基地の広大な敷地が占め、常に何千人という兵士が移動の途中に立ち寄っていた場所である。 そんな町で育ったトムは青年に成長すると、頻繁に一人旅をするようになる。車で何時間もかけて父と母の間を行き来していたのだ。ひたすら高速道路を飛ばしているうちに、いつの間にか“路上を走り回ること”そのものが好きになっていったという。 「初めて自分の車を手...more
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宇都宮のセレクト店「マーキュリーキューブ」仁平達也さん 郊外に移転し新規客を獲得 - 11月26日(水)14:00  繊研プラス

 宇都宮市中心部の住宅街から3年前に新規顧客の獲得を目指し、メンズセレクトショップ「マーキュリーキューブ」(旧マーキュリー)として郊外に移転しました。品揃えも大幅に刷新。かつてはロック色が強く、全身黒イメージのブラ...
カテゴリー:ファッション

なぜフレディ・マーキュリーは「伝説のチャンピオン」を複数形にしたのか - 11月23日(日)18:20  TAP the POP

♪ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ マイ・フレンド♪ フレディー・マーキュリーが書いた「伝説のチャンピオン」は、試合後、勝者を讃える歌として数多くの競技場で歌われている。 「頭の中にあったのは、サッカーだ。ファンたちが参加できるようなものを書きたいと思った。よくあるチャントのようなものではなく、もっと演劇的な要素を持った歌をね」 だから、チャンピオンズ(勝者たち)という複数形の歌詞なのである。ファンたちは、選手と自分たちを含めて、勝者であると歌うのだ。 「伝説のチャンピオン(ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ)」は、1977年に発表されたアルバム「世界に捧ぐ」に収録され、シングルとして先行発売された。 このシングルにカプリングされたのが
カテゴリー:エンタメ

“スマイル”の先にフレディ・マーキュリーが見たもの - 11月23日(日)18:15  TAP the POP

1970年6月27日。英国の南西部突端にあるトゥルーロ・シティ・ホールのコンサートに、彼らはそれまでと違う名前で現れた。 ブライアン・メイがロジャー・テイラーらと結成したバンド「スマイル」は、1969年の9月にシングル「フェイス」を発売したが、まったくセールスにはつながらなかった。 失敗といってもいいデビューの翌年、バンドのベーシストにしてボーカルを担当していたティム・スタッフェルが脱退してしまう。そしてティムの代わりにバンドにボーカルとして参加したのが、ファルーク・バルサラ、後のフレディ・マーキュリーである。 フレディは、ティム・スタッツェルの同級生だった。そんなことから、「スマイル」のことはずっと身近で観てきていた。 「バンドは解散すべきではない」 そう言ったのは、バンドのファンでもあったフレディだった。そして彼は自らバンドに飛び込んでいったのである。心機一転、バンドの名前を変えることを提案したのも、フレディだった。 「クイーン」 フレディの提案には、当初、ブライアンもロジャーも気乗りがしなかった。フレディが言うように、クイーンという単語からは、様々なイメージが広がったが、その中の一つが「女装した男」という意味だった。 フレディの中では、すでにその後の「クイーン」のイメージができあがっていたのだろう。 その夜のライブは、成功のうちに終わる。バンドのギャラは5...more
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フレディ・マーキュリー死の直前〜死を受け入れながら過ごした日々 - 11月23日(日)18:06  TAP the POP

1986年10月。英国のマスコミは、人気ロックバンドのクイーンのヴォーカリストであるフレディ・マーキュリーが、ロンドン・ハーレー街(上流階級の住宅地区)の診療所で、HIVの血液検査を受けたと報じた。 当時、日刊タブロイド新聞のリポーターが、日本から戻って来たばかりのフレディにヒースロー空港でインタビューしたが、この時フレディは病気を否定した。 パートナーのジム・ハットンは、フレディのエイズ感染についてこんな発言を残している。「彼は1987年4月の後半には感染を認識していた」 本人は対外的には噂を否定していたものの、英国のマスコミは1990年頃から、フレディの痩せこけた姿、クイーンのツアーへの不参加などから、エイズに感染しているのではないかと盛んに報じた。 フレディが生前最後のステージに立ったのは、1990年2月18日にドミニオン劇場で行われたブリット・アワードの授賞式だった。 ちょうどその頃、クイーンのメンバーたちは14枚目のオリジナルアルバム『Innuendo』のレコーディングのため、スイスのモントルーにあるマウンテンスタジオに集結していた。 人生最後の年。マスコミに追いかけ回されていたフレディは、体調の許す限り、何度もスイスに滞在した。ゆっくりとレコーディングを進めるその姿は、静穏な場所に安らぎを求めているかのようだった。 新作のミュージックビデオのアニメーショ...more
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ライトスタッフ〜荒野の大空で宇宙を垣間見た孤高のパイロット - 12月06日(土)07:55  TAP the POP

『ライトスタッフ』(The Right Stuff/1983) 宇宙がまだ見ぬ未知の光景だった頃。1957年10月、ソ連は遂に人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功。これを機に宇宙開発の幕が切って落とされた。そしてその一ヶ月後には、ソ連は早くも犬を乗せて2号を打ち上げ。 この立て続けの事態に一番衝撃を受けたのは、言うまでもなくソ連と冷戦状態にあったアメリカだった。“鉄のカーテン”の中の出来事を現実として受け入れざるを得なかったアメリカは、本格的な宇宙開発に取り組むべく1958年10月にNASAを設置。翌年には宇宙飛行に相応しい人材探しを始める。こうしてカプセルに人間を入れて宇宙に打ち上げるという、有人衛星計画「マーキュリー計画」が発表された。 これは軍事的レベルのプライドだ。「宇宙を制する者が世界を制す」。ソ連にこのまま先を越されてはたまらない。アメリカは躍起になって計画を進めた。飛行の候補に上がったのは、アクロバット芸人やサーファーなどの超越した体力の持ち主。冗談のようだが本当の話だ。最も適していたとされる空軍のテストパイロットたちは「無謀」「反抗的」という理由で当初は敬遠されていた。 だが、そんな綺麗ごとなど言ってられない。結局「マーキュリー計画」には奇妙な適性検査や過酷な訓練を経て、テストパイロットたちを含むプロの先鋭たちが選出された。アラン・シェパード(...more
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ボヘミアン・ラプソディ〜「グラムロックの残りカス」と酷評されたクイーンの快進撃 - 11月24日(月)10:03  TAP the POP

『ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody/2018) クイーン、そしてフレディ・マーキュリーの知られざる姿を描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody/2018)が日本でも大ヒットしている。 クイーンがデビューしたのは1973年。その奇抜なアイメイクやファッションのせいもあって、本国イギリスの音楽メディアからは「グラムロックの残りカス」などと酷評されながらも、日本では女性ファンから火がついたというのは有名な話(ちなみにこれがモデルケースとなり、チープ・トリック、デュラン・デュラン、ボン・ジョヴィなども同じように日本では女性ファンがアイドル的に先導。その後に本国や世界規模でブレイクを果たした)。 音楽雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票ではバンドやメンバーが1位を独占する時期(70年代後半〜80年代前半)もあり、この頃ファンだった人たちの心をしっかり捉えていることも一因だ。また、リアルタイムでクイーンを知らない世代でも、90年代以降にスポーツイベントや映画やCMなどで彼らの曲が繰り返し使用される機会があったことから、CDバブルの時代に実は後追いしていた人も少なくない。 余談だが、90年代に「ボヘミアン・ラプソディ」のリバイバル・ヒットに多大な貢献をした映画『ウェインズ・ワールド』に主演したマイク・マイヤーズが、本作ではフ...more
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クイーンの名曲「キラー・クイーン」に潜む甘い罠 - 11月23日(日)18:17  TAP the POP

「この曲は、完璧なポップソングであり、フレディが書いた偉大な曲の一つに数えられるだろう。そして私も、あのようなギターソロを弾けたことを光栄に思っている」 2008年。クイーンのギタリスト、ブライアン・メイはQマガジンのインタビューで、彼らの初期のヒット曲「キラー・クイーン」について、そう語っている。 クイーンにとって3枚目のアルバムとなる「シアー・ハート・アタック」(1974年)に収録されることになるこの曲は、日本での彼らの人気を決定づけ、初来日には多くの少女たちが歓声をあげたものだった。 だが、この歌は少女たちが熱狂するような歌ではなかった。 ♪小奇麗なキャビネットにはモエ・シャンドン ケーキでもお食べなさい、と彼女は マリー・アントワネットのように言う♪ 「キラー・クイーン」の冒頭でそう歌われる彼女は、フルシチョフやケネディでも拒むことができない魅力の持ち主である。その正体について、作曲者のフレディ・マーキュリーはニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に対して、次のように語っている。 「あの曲は、高級娼婦について書いたものだ。エレガントな女性でも、娼婦になるということだよ。もちろん、聴く人が自由に解釈してくれて構わないのだけれどね」 いつの時代でも、シャンパンは高級の代名詞なのだろうか。「ホテル・カリフォルニア」の女主人がピンク・シャンペンを愛したよう...more
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若き日のフレディ・マーキュリーが憧れたロックスターはジミ・ヘンドリックスだった - 11月23日(日)18:11  TAP the POP

「彼は僕がなりたかったものすべてを体現していた」 フレディ・マーキュリーがもっとも尊敬する人物の一人として挙げているのが、ジミ・ヘンドリックスだ。 フレディの本名はファルーク・バルサラ。生まれはアフリカ東部の国、タンザニアのザンジバルという小さな島だが、両親はインド出身でしかも2人ともペルシャ人の血を引いているという、やや複雑な経歴を持っている。 海が美しく、世界有数のリゾート地として知られるザンジバル島で幼少期を過ごしたフレディだったが、両親はこの島ではフレディに満足のいく教育を受けさせることは出来ないと考え、故郷であるインドにある寄宿学校にフレディを入学させることにする。 家族から遠く離れた地に独り送られたフレディだが、そこで類まれな才能を発揮し始めた。学業最優秀賞を受賞するほど成績が優秀で、しかもスポーツでの活躍もめざましく、特にボクシングなどの個人競技が得意で学校の卓球大会では優勝しており、文武両道賞も受賞している。 また、ピアノを習いはじめたのもこの頃で、その上達ぶりは目を見張るものがあった。自分が特別な人間であるというスター的な感覚は、この時期に養われたのかもしれない。 ところが思春期を迎えた頃から学業への興味を失いはじめ、美術を残して成績は軒並み下がっていく。それは音楽や芸術への関心がより強くなったことの表れでもあった。 1963年には家族のいるザ...more
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フレディ・マーキュリーの27歳~わずか半年で無名からロックスターへ - 11月23日(日)18:01  TAP the POP

1973年9月5日、フレディ・マーキュリーが27歳の誕生日を迎えたのは、クイーンがファースト・アルバム『戦慄の王女』をリリースから2ヶ月が過ぎた頃だった。 アルバムにはドラマチックな展開やハイトーンなシャウトといったクイーンの特徴的なサウンドが現れていたが、批評家から酷評されてチャートインすることすら叶わなかった。この頃のクイーンはまだほとんど無名で、数多くある野心的なバンドのひとつに過ぎなかった。 しかし、アメリカでは83位ながらも、アルバム・チャートで100位入りを果たすことができた。ドラムのロジャー・テイラーによれば、それが最初の兆候だったという。 10月からはデヴィッド・ボウイから提供された「すべての若き野郎ども」がヒットして人気を集めていたバンド、モット・ザ・フープルのツアーで前座を務めることになった。 批評家からは酷評された彼らの音楽だったが、ライブを観に来た観客の反応はとてもよく、回を重ねるごとにファンは増加、ついにはモット・ザ・フープのツアーにもかかわらず、観客の半分がクイーンを目当てに観に来るほどになった。 そんな中、同じプロダクションのデヴィッド・ボウイと仕事をしていた写真家のミック・ロックを紹介されたことから、バンドのビジュアル・イメージを固めるための写真撮影が行われた。 上半身裸で化粧をした男4人の写真はまたしても批評家から酷評を集めることにな...more
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