40歳で大ブレイクと復活を果たしたボニー・レイット
ボニー・レイット──この名前を耳にすると、彼女の音楽がむしょうに聴きたくなってしまう。ブルーズ、R&B、ロック、ポップス、バラードなど、それがどんなタイプの音楽であっても、ボニーの声に包まれると実に味わい深く、聴く者の心に響き渡る。そしてあの極上のスライドギターが壮大な音楽の旅へと誘うのだ。こんな体験をさせてくれるミュージシャンはそうはいない。
1949年生まれのボニーは、父親がブロードウェイのスター、母親がピアニストというショービジネスの家庭で育った影響もあり、幼い頃から音楽に目覚めてギターを手にする。大学生になるとブルーズ・クラブで演奏するようになるが、この頃にプロモーターのディック・ウォーターマンと知り合い、フレッド・マクダウェル(ローリング・ストーンズが彼の「You Gotta Move」をカバーしたのは有名)やシッピー・ウォレスといった伝説のブルーズマンやシンガーと孫と娘のような関係で交流。特にフレッドからはスライドギターを伝授してもらい、赤毛の白人スライドギタリスト/ブルーズシンガーとして1971年にレコードデビューを果たす。
以後70年代を通じて、ボニーは良質な作品を発表し続けた。どのアルバムからもデルタ・ブルーズやR&Bへの愛情、ルーツ・ミュージックに対する敬意が聴こえてくる。そして歌い...more手としても、ジャクソン・ブラウンやJ.D.サウザー、エリック・カズやジョン・プライン、カーラ・ボノフなどの優れたソングライターの曲を紹介してくれた。73年頃からはリトル・フィートのローウェル・ジョージの影響でエレクトリック・スライドも取り入れ始め、彼女は自分が信じる音楽だけをひたすら追求していった。
しかし、マーケティングやコマーシャリズムとは無縁のその音楽性は、セールスやチャートに結びつくことはなかった。71~86年までに9枚のアルバムをリリースしたものの(しかも86年のアルバムは3年前に制作されたもの)、レコード会社から契約を破棄されてしまう。「売れない」というのが一番の理由だった。
さらにボニーはこの時期、個人的なトラブルを抱えていたせいか、酒や薬物に溺れたといわれる。スリムだった身体も肥満になり、それは独特の歌声にも影を落としていた。ライ・クーダーと並ぶスライドの名手であり、リンダ・ロンシュタットとも比較されたことのある歌い手の目の前には、このまま忘れられるか、それとも死んでしまうか、そんな救われない選択肢が迫っていたに違いない。
ボニーは失意のまま、暗闇に覆われた道に迷いながら音楽を続けることになった。「ノー・ニュークス」(1979)や「サン・シティ」(1985)や「ファーム・エイド」(1985)といったチャリティ活動家でもあった彼女は、1988年にカルロス・サンタナやジェリー・ガルシアらと一緒にあるチャリティ・コンサートに出演。
に参加したことが、私が立ち直るきっかけになったと思う。自分の音楽に対する姿勢の原点のようなものを、このコンサートでつかみ直すことができた。しばらく見失っていたものを思い出した気がして光が見えたの。自分のすべきことがもう一度きちんと見えてきたのよ。
ボニーには本物の音楽を創り出したはずの黒人ブルーズ・ミュージシャンたちが、いい加減な著作権契約のためにレコード会社から搾取されて、生活さえ困窮している現状が許せなかった。今度は「自分が彼らのために立ち上がらねば」と思ったのだ。
そんな中、心機一転してドン・ウォズをプロデューサーに迎えて制作した1989年の『Nick Of Time』は、何と全米ナンバーワンとなって500万以上のベストセラーに。グラミー賞のアルバム・オブ・ジ・イヤーにまで輝いた。40歳での大ブレイク、大復活。
そこに何よりも意味があったのは、デビュー当時から一貫した音楽性だったこと。しかも彼女のスライドが今まで以上にドライヴしていたことが嬉しい。
「ブルーズの危機が私を救ってくれた」と彼女は言う。ボニー・レイットは誰もが認める本物のミュージシャンとして、現在も良質な音楽と向かい続ける(ボニーは、支援や保存を目的としたリズム&ブルーズ基金の設立メンバーでもある)。
Live In Montreux ’77
復活後の代表曲の一つ「Something to Talk About」。スライドを弾く姿こそボニー・レイット。
ボニーがリリースしてきたアルバムたち
Nick of Time
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*参考/『Switch』(1989年10月号)、『CROSSBEAT Presents スライド・ギター』(五十嵐正監修/シンコーミュージック・エンタテイメント)
*このコラムは2014年11月に公開されたものを更新しました。
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1967年12月27日。詩人、小説家からシンガーへの転身をはかったレナード・コーエンのデビュー・アルバム、『ソングス・オブ・レナード・コーエン』が発売された。
アルバムとしては成功とは言い難いセールスだったが、「スザンヌ」「ソー・ロング・マリアンヌ」は他のアーティストにカバーされ、ソングライターとして認知されるとともに、コアな信者を獲得することになる。
以前、「スザンヌ」については紹介したので、今回は「マリアンヌ」について書いてみようと思う。
♪ああ、君と暮らしたい
だが君のせいで
物忘れが激しくなった
私は天使たちに祈ることを忘れ
天使たちはふたりのために
祈ることを忘れてしまった♪
これはマリアンヌとの別れの歌である。
♪さよなら、マリアンヌ
ふたりはもう一度
笑い、泣き
泣いて笑う日々を最初から
やり直すことになる♪
マリアンヌには、夫と子供がいた。夫はノルウェイの作家、アクセル・ジャンセン。アクセルは当時、小説を書くために、ギリシアのハイドラ島に家族と共に滞在していた。マリアンヌはそこでレナード・コーエンと出会い、恋に落ちたのである。
マリアンヌは息子を連れ、レナード・コーエンとの生活を選ぶ。そして3人は、カナダのモントリオールへと向かい、一緒に暮らし始めるのだが、その生活も長くは続かなかった。
そこは自由人、レナード・コーエンの性である。だが、彼...moreは生涯、彼女に対して、深い想いを抱いていた。
♪君の手紙にはいつも
私のそばにいる、と書かれていた
だとすれば
どうして孤独を感じようか
岸壁に立っていようとも
君の繊細な蜘蛛の巣は
私の足を岩に縛りつける♪
2016年。癌を患ったマリアンヌの元に、レナード・コーエンから手紙が届く。
「なあ、マリアンヌ。私たちはこのように年老い、ふたりの身体は離れ離れだ。そして私もすぐ君の後を追うことになる。もし君が手を伸ばせば、私はすぐそばにいる。君に、すぐ届くくらいにね。
いつだって私は、君のことを愛してきた。君の美と知恵を。もうそれ以上言わずとも、わかってくれるはずだ。今はただ、君がよい旅をできることを祈っている。さようなら、旧き友よ。終わりなき愛を。道の向こうで会おう」
7月にマリアンヌは天国の島へと旅立ち、レナード・コーエンは11月、彼女の元へ遅れて旅立った。
Songs of Leonard Cohen
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リッキー・リー・ジョーンズが、トム・ウェイツと出会ったのは1977年、22歳のときだった。歌手としての成功を夢見て、ナイトクラブやコーヒーショップなどで歌っていた頃。
19歳で家出をしてロサンゼルスへやってきた彼女は、当時、住む家もないまま、友人のアパートなどを転々としながらウェイトレスとして働いて生計を立てていた。
そんなある日、ロサンゼルスでも有名なクラブで歌うチャンスを得る。その時にトルヴァドールのキッチンで働いていたのが、後の彼女のヒット曲「Chuck E.’s In Love(恋するチャック)」のモデルとなったチャック・E.ワイスだった。
チャックが自分の友人であるトム・ウェイツを彼女に紹介したことがきっかけとなり、二人は恋に落ちる。親しくなった二人は、50年代のビート詩人たちのように毎日朝方近くまで酒場で語り合うようになり、すぐに同棲を始めた。
トムは当時のリッキーの印象をこんな風に語っている。
「ゴージャスなブロンド、小鹿のような眼、そして豪華なあの胸のふくらみ、一目見たとたんあの家出娘にはまいったもんよ」
当時28歳だったトムは、すでにプロ歌手として世に出ており、前年にアルバム『Small Change』を発表したばかりだった。デビューから3枚のアルバムを発表したものの、セールス面では実績を残せなかった彼は疲れきっていた。
そこでレコ...moreード会社の援助を受けてロンドンに渡り、滞在中に名曲「Tom Traubert’s Blues (Four Sheets to the Wind in Copenhagen)」を書いた。
Foreign Affairs
Blue Valentine
二人が出会った1977年。トムはアルバム『Foreign Affairs(異国の出来事)』を発表している。その翌年に発表した『Blue Valentine』(1978年)と続けて、トムは彼女との写真をレコードジャケットに使っている。
トムはこの時期、まだ歌手として下積み時代を過ごしていたリッキーのために、「Rainbow Sleeves 虹の袂(たもと)」という曲を書き上げている。同曲は、後に彼女自身が歌うこととなる。
リッキーもトムとの同棲生活の中で「Easy Money」という曲を書き、その曲がローウェル・ジョージ(元リトル・フィート)のソロアルバム『特別料理』(1979年)で取り上げられることになり、24歳でデビューのきっかけを掴む。
1979年2月、アルバム『浪漫』でデビューを果たし、いきなり全米3位の大ヒット。二人の出会いのきっかけとなった楽曲「Chuck E.’s In Love(恋するチャック)」も、同アルバムからシングルカットされて全米4位を記録。翌年のグラミー賞・最優秀新人賞を獲得した。
「あの人の “底辺に生きる” ことへの憧れはよくわかるし、歌も生き方も大好きよ。でも二人で一緒にそれを続けていたら、どちらかが先にダメになってしまう」
彼女が一躍スターダムへの道を歩き始めた頃、二人は別々の道を選択することとなる。この時の別れの情景をトムは後に「Ruby’s Arms」という楽曲にしたためている。
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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html
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