今から約6000年前、メソポタミア文明を興したシュメール人は驚くべき植物を発見しました。
「フル・ギル」と呼ばれたその植物は体のあらゆる痛みを消し去り、うっとりとした幸せな気分を与えてくれたのです。
フル・ギルから生まれた薬物は今日、別の名前で知られています。
「アヘン」です。
しかしアヘンは人々を痛みから解放してくれる一方で、麻薬中毒へと溺れさせる恐ろしい裏の顔を持っていました。
そして人類はアヘンをなんとか使いこなそうと改良する中で、とんでもない”悪魔の実”を産み落としてしまいます。
今回は歴史上で最も有名な麻薬アヘンがいかに発見され、どのように人々を破滅へと導いていったのかを見ていきましょう。
目次
「神の薬アヘン」の発見中国人を狂わせた「アヘン戦争」モルヒネ、そして悪名高き「ヘロイン」の誕生
「神の薬アヘン」の発見
シュメール人はティグリス川とユーフラテス川の間に移り住み、世界最初の文明であるメソポタミア文明を興しました。
そこで彼らは不思議な力を持つ植物を発見します。
シュメール人たちはそれを「喜びをもたらす植物」という意味の「フル・ギル」と呼びました。
ケシの果実 / Credit: ja.wikipedia
フル・ギルの正体は「ケシ」の一種であり、その実を絞ると乳白色のぬるっとした液体が採取されます。
シュメール人はこの乳白色のぬるっとした液体を口にすると、体の
...more痛みが消え去り、夢見心地のうっとりとした気分になれることに気づきました。
そうして彼らはケシの実から採れる乳白色の液体を乾燥させた薬を作ります。
これが「アヘン」です。
シュメール人たちはこれを太陽神ラーの頭痛を癒すために女神イシスが与えた贈り物だと信じました。
アヘンはその後、どんどん世界へと広まっていきます。
インドのケシの果実/ Credit: en.wikipedia
古代ギリシャでは、あらゆる病気を治すための万能薬としてアヘンが使用されました。
不眠症や頭痛、めまい、難聴、てんかん、脳卒中、弱視、発熱などなど、挙げればキリがありません。
その一方で、当初から人々はアヘンに危険な一面があることにも気づいていました。
それは「中毒性が高いこと」と「服用量が多すぎると死んでしまうこと」です。
医師の中には危険視する者もいましたが、人々はアヘンの神がかった効能に魅入られてしまい、アヘンを手放すことはできませんでした。
17世紀のイギリスの医師トマス・シデナムは「全能の神が苦しみを和らげるために人間に与えた治療薬の中でも、アヘンほど万能で効き目のあるものはない」との言葉を残しています。
こうして「神の薬アヘン」という考えが世界中に浸透しました。
そして人類はアヘンをきっかけに戦争まで起こしてしまうのです。
中国人を狂わせた「アヘン戦争」
時は18世紀のイギリス。
大衆の間で紅茶が大流行しており、イギリスは生産地の中国から大量に茶葉を輸入していました。
中国は当初、その見返りとして銀をもらっていたのですが、イギリス側が次第に大量の銀を輸出することを渋り出します。
そこで銀の代わりにアヘンを送ることにしたのです。
仕組みとしては次のような三角関係が描かれます。
まず、中国からイギリスへ茶葉が輸出されます。
次にイギリスはアヘンを作っていないので、植民地のインドに綿織物を送り、その代わりにインドで大量のアヘンを生産させ、中国へと送ったのです。
三角貿易/ Credit: canva(ナゾロジー編集部)
そして予想通り、中国でアヘン中毒者が続出することになり、中国へのアヘンの輸入量が年を追うごとに爆増していきました。
1720年には15トンでしたが、1773年には75トン、そして1839年には2540トンというあり得ない数字にまで膨れ上がっています。
その結果、当時の中国人の4人に1人(約25%)がアヘン中毒になってしまったのです。
「これでは国が崩壊する」と危機感を抱いた中国政府はアヘンの輸入を禁止します。
さらに政府長官の林則徐は1839年、イギリスから輸入されたアヘン1180トンを没収し、大量処分する断行に踏み出しました。
しかしアヘンの輸入を止められると、イギリス人は大好きな紅茶が飲めなくなってしまいます。
そうしてイギリスと中国との間に「アヘン買えよ」「いらねえよ」のいざこざが起こり、戦争が勃発する事態に。
これが「アヘン戦争」です。
アヘン戦争/ Credit: ja.wikipedia
ところが中国の相手は世界に冠たる大英帝国。
力の差は歴然で、1860年にかけて2度の戦争が行われましたが、いずれも中国は大敗しています。
中国はイギリスに多額の賠償金を支払わされただけでなく、アヘンの輸入量も今まで以上に増やされてしまったのです。
そして中国で溢れかえったアヘン中毒者は次にアメリカへと広がっていきます。
当時、アメリカ西部で大量の金が発掘されるようになり、一攫千金を狙った人々が世界各地からアメリカに押し寄せました。
ゴールドラッシュです。
ゴールドラッシュに乗じて大量の中国人がアメリカに/ Credit: ja.wikipedia
この流れに乗じ、1850年から1870年にかけて、約7万人の中国人がアヘンのパイプを携えてアメリカに流入しました。
当然ながらアメリカ人はパイプの煙をうまそうに吸っている中国人を目にします。
「よお、なんかいいもん吸ってるじゃねぇか?」「俺らにも吸わせろよ」「…おい、こりゃ絶品だな」
おそらく、そんな会話があったことでしょう。
次第にアメリカにもアヘン窟ができ、賭博師や娼婦、犯罪者たちがたむろするようになったのです。
アヘンを吸う中国人たち/ Credit: en.wikipedia
アヘンの魔の手はアメリカ全土に広まり、とうとう中国と同じく中毒者で溢れかえるようになりました。
こうして世界的にも「アヘンは危険すぎる」という認識が次第に定着し始めます。
そんな中、ドイツの若き薬剤師が19世紀の初めに「アヘンの危険な成分だけをなくせばいいのではないか」と考え、実験を開始していました。
こうして開発されたのが「モルヒネ」です。
モルヒネ、そして悪名高き「ヘロイン」の誕生
ドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチュルナーは1803年、アヘンに最も多く含まれ、最も作用の強い成分を抽出することに成功しました。
彼はこの成分をギリシャ神話に登場する夢の神モルフェウスにちなんで「モルフィウム」と名付けます。
これがのちに「モルヒネ」と改称される物質です。
モルヒネはアヘンの6倍もの効果があり、強力な痛み止めと短時間での高揚感が得られました。
しかしゼルチュルナーはそれと同時に、アヘン以上に強い気分の落ち込みと依存状態になることを自らの体で確かめます。
中毒成分が取り除かれるどころか、逆に中毒性が高まってしまったのです。
彼は「私はとんでもなく恐ろしい物質を作り出してしまったかもしれない」と警告しましたが、周囲は聞く耳を持ちませんでした。
そして1827年にドイツの製薬会社がモルヒネに目をつけて、大量生産を開始。
モルヒネがあらゆるケガ人や病気の患者に使われ、今度はモルヒネ中毒者が続出しました。
Credit: ja.wikipedia, ja.wikipedia
こうした失敗を目にしたイギリスの薬剤師C・R・オルダー・ライトは「モルヒネを別の物質と混ぜ合わせればいいんじゃない?」と発案します。
つまり、モルヒネを他の成分と化学反応させることで、中毒作用を起こす成分を消してしまおうと考えたのです。
そこで彼はモルヒネを反応型の無水酢酸と混ぜてストーブの上で数時間過熱しました。
このプロセスを「アセチル化」と呼びます。
ライトはアセチル化で得られた粉を飼い犬に与えてみたところ、犬は突如として興奮し喚き立て、最後には死亡寸前にまで陥りました。
「あ、これはダメだ」と判断したライトは、研究成果を論文にまとめて学会に発表するにとどめます。
ところがその後、ドイツの製薬会社で働いていた化学者ハインリッヒ・ドレゼルがライトの論文を目にし、「そうか、モルヒネをアセチル化すれば、強力な鎮痛薬が得られるのか」と気づきました。
こうして1898年にその製法に基づいた新薬が生み出されます。
これがかの悪名高き「ヘロイン」でした。
ヘロインはアヘンより強いモルヒネのさらに5倍もの効き目があり、強力な鎮痛作用がありました。
しかし一方で、アヘンが元々持っていた悪の力も凝縮され、今まで以上の強烈な気分の落ち込みと中毒作用を引き起こしたのです。
しかもヘロインはドイツやアメリカの薬局で普通に手に入るものとな...
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丸1日、24時間走り続けると聞くと、何を思い浮かべるでしょうか?
例年夏に放送されているチャリティー番組を思い浮かべる人もいるかもしれませんし、中には、実際そんなことが本当に可能なのか疑っている人もいるでしょう。
実のところ、24時間走は、定期的に世界選手権も開催されているスポーツ種目として存在しています。
この記事では、丸一日走り続け、偉大な記録を残したトップアスリートを対象とした研究をもとに、彼らの強さの秘訣に迫り、そのエピソードから何を学べるのか考察します。
目次
驚異の胃袋 イアニス・クーロス現世界記録保持者のトレーニングと意外なキャリア
驚異の胃袋 イアニス・クーロス
最初に紹介するのは、「走る神」というニックネームを持つウルトラマラソン界の偉人、イアニス・クーロスです。
彼はマラソン(42.195km)を超えるウルトラマラソンというスポーツで主に1980年代から2000年代にかけて圧倒的な強さを誇り、世界で初めて24時間で300kmを超えたアスリートです。
彼が記録した24時間走の303.506kmという驚異的な数字は、平均すると1キロを4分44秒、マラソンを3時間20分のペースで走り続けたことを意味します。
24時間走は陸上トラックや1周1~2km程度の周回コースで開催されることが多い / Credit: 写真AC
そんなクーロスですが、一般に全身持久力として知
...moreられている最大酸素摂取量(VO2max)は、競技ランナーの中では特に高いわけではありません。
彼の最大酸素摂取量は63ml/kg/minと報告されており、これはマラソンのトップアスリートの平均的な数値に比べると低く、マラソンの自己記録が3時間20分のランナーの中にも同じくらいの人がいます。
つまり、クーロスの圧倒的な強さは、単なる全身持久力では説明できないのです。
では、彼の強さの秘密はどこにあるのでしょうか? その秘密を探ると、走りながら大量の食事を摂取できる胃腸の強さが浮き彫りになります。
1985年に開催されたシドニー~メルボルン(オーストラリア)960kmレースでは、彼は2位の選手に対して1日以上の差をつけ、5日5時間7分で優勝しましたが、その初日に270kmを走破しています。
これは24時間走としてもワールドクラスのパフォーマンスです。
アメリカ臨床栄養学会誌に掲載されている研究によると、クーロスはその1日だけで1万3770kcalを摂取していました。
これは、成人日本人男性の摂取エネルギーが約2100kcal(平均値)であることを踏まえると、驚異的な食事量です。
多くの人が1日で1万kcal以上の食事をしようと試みても、胃もたれや消化不良、吐き気を感じてしまうでしょう。
実際、2019年の24時間走世界選手権に参加した11名のランナーを対象とした研究によると、レース中の摂取エネルギーが約8000kcalだったことからも、クーロスの胃腸の強さが際立ちます。
2008年、ハンガリーのバラトン湖一周212kmのレースで優勝したクーロス / Credit: Bercese, CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
彼がレース中に摂取した食事には、ギリシャの伝統菓子やチョコレート、ドライフルーツ、ナッツ、果物、さらに蜂蜜やジャムを染みこませたビスケットなど、糖質が豊富な食品が中心でした。
ランニングのペースが速いほど消費カロリーは増加し、より多くのエネルギーを糖質から得ようとします。
一方、体内には脂肪は使い切れないほど貯蔵されていますが、糖質は限られた量しか蓄積できません。
したがって、ウルトラマラソンでは、レース中に糖質を摂ることがエネルギー源の枯渇を防ぐための鍵となりますが、多くのランナーは、自分が消費するエネルギーに見合うだけの食事を摂れません。
その理由は、運動中は交感神経が活性し、胃腸の働きが低下しやすいからです。
また、運動による筋肉の活動や発生する熱の影響で、内臓への血流が減少し、消化吸収が難しくなる上、ランニングによる揺れが原因でお腹を壊しやすくなることもあります。
実際、レース中に生じる胃腸の不調は、ランナーがペースを落としたり、途中で棄権したりする主な原因とされています。
クーロスのように、レース中に大量のエネルギーを摂取できる選手は、こうした胃腸の問題を克服し、エネルギー源を補給しながら走り続けることで、優れたパフォーマンスが発揮できるのです。
そんな彼がマークした24時間走の驚異的な記録は、長年破られることがないばかりか、誰も300kmを超えるランナーが現れない状況が続きました。
しかし、リトアニアのアレクサンドル・ソロキンが2021年に309.399km、2022年には319.614km(平均4分30秒/km)を走破することで、不滅と思われたクーロスの大記録がついに破られました。
次のページでは、そのソロキン選手の強さの秘訣に迫ります。
現世界記録保持者のトレーニングと意外なキャリア
アレクサンドル・ソロキンは24時間走の世界記録のほか、100km、100マイル、6時間走、12時間走の世界記録も保持しており、現代のウルトラマラソンの第一人者と呼べるアスリートです。
そんなソロキンのトレーニングを詳しく分析した研究が2024年に発表されています。
彼のトレーニングを見ると、24時間走に向けて最も負荷を高めた際には、週350kmを超える常人離れした距離を走り、そのメニューもバラエティに富んでいます。
具体的には、休みの日がないのはもちろん、1日に2回走ることも多く、一度に50kmから70kmを走るメニューや、24時間走のレースペースよりも1キロ当たり1分以上速いペースでのインターバル走も取り入れています。
クーロスやオリンピックに出場するようなマラソンランナーと比べても、ハードなトレーニングに裏打ちされた確かな脚力と心肺機能が彼の強みです。
一方で、彼はこのようなトレーニングを年中続けているわけではなく、時期によってその内容にバラつきがあります。
特に主要なレース後には、サイクリングやスイミング、ウエイトリフティングといったランニング以外のトレーニングに取り組んでいます。
このようなメリハリが怪我の予防につながり、結果としてレースに向けて頑張るべき時に思いっきり頑張れることに役立っているのかもしれません。
アレクサンドル・ソロキン(40歳で24時間走の世界記録を達成した数日後) / Credit: Augustas Didžgalvis, CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
興味深いことに、ソロキンはランニングを始めたのは30歳を過ぎてからで、そのきっかけは当時100kgあった体重を減らすことでした。
つまり、元々学生時代にランナーとしてエリートだったわけでもなければ、最初から今の成功を思い浮かべていたわけではないのです。
しかし、走り始めてからおよそ10年後には、ウルトラマラソンで数々の記録を打ち立てる偉大な選手にまで成長しました。
ソロキンのような卓越したレベルに達することは、確かに稀なことかもしれません。
しかし、彼のエピソードが私たちに示しているのは、何か新しいことを始めることで、自分の中に眠っている才能や可能性に気付く機会があるということです。
最初の一歩を踏み出すことは簡単ではないかもしれませんが、まずは始めてみることが大切で、いつの間にか自分でも信じられないような成長を実感できるようになるかもしれません。
全ての画像を見る参考文献Aleksandr Sorokin shatters his own 24-hour recordhttps://runningmagazine.ca/sections/runs-races/aleksandr-sorokin-shatters-his-own-24-hour-record/元論文Energy balance in ultramarathon runninghttps://doi.org/10.1093/ajcn/49.5.976Training Regimen of an Elite Ultramarathon Runner: A Case Study of What Led Up to the 24-Hour World-Record Runhttps://doi.org/10.1123/ijspp.2023-0182ライター髙山史徳: 大学では健康行動科学、大学院では体育学・体育科学を専攻。持久系スポーツの研究者として約10年間活動。 ナゾロジー...
渡り鳥はいかにして地図も持たずに数千キロ先の目的地へ迷うことなく飛んでいけるのでしょうか。
この長年の謎を解く鍵として注目されてきたのが、生物が地球の磁場を感じ取る「磁気感覚(マグネトレセプション)」です。
近年の研究により、この不思議な“第六感”が想像を遥かに超える精度を持つ可能性が浮上しています。
そこで今回ギリシャのクレタ大学の研究チームは、鳥類などが利用する磁気感覚メカニズムをエネルギー分解能限界(ERL)の視点から評価し、その性能が量子限界に驚くほど近いレベルにあるとの解析結果を発表しました。
「量子限界」とは、私たちがどれほど精密な装置を使っても測定には必ず残る“揺らぎ”の限界点のようなもので、量子力学の原理が示す理論上の壁を指します。
つまり、どんなに感度を高めても、その“壁”を越えることはできないとされています。
もし自然界の生物センサーが、先端技術で作り上げた精密な磁気センサーに匹敵する感度を発揮しているとすれば、私たちの科学観や未来のセンサー技術に大きな変革をもたらす可能性があります。
鳥がどのようにして“見えない地図”を読み解いているのか、その謎に迫る成果です。
研究内容の詳細は2025年1月16日に『PRX Life 3』にて発表されました。
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鳥類の磁気感覚は磁気センサーの理想値に近い鳥類の磁気感覚は量子限界に達している
鳥類の磁気感覚は磁気セン
...moreサーの理想値に近い
動物の磁気感覚は量子限界に驚くほど近い性能を持つ / Credit:Canva
鳥類をはじめとする多くの動物が、わずかな地球磁場の変化を感じ取り、長距離移動や方向選択に活かしている現象は「磁気感覚(マグネトレセプション)」と呼ばれ、数十年来、大きな謎として研究者たちを魅了してきました。
動物行動学の視点からは、渡り鳥がいかにして地図も方位磁針もない状態で数千キロを正確に移動できるのかという問題があり、また生物物理学の立場からは、微弱な磁場信号をどのように高感度で検知しているのかという根源的な疑問が浮上します。
この「不思議な第六感」を解明しようとする試みは、化学や分子生物学、物理学など多方面の学術分野を巻き込みながら発展してきました。
一方、人類は近年、量子物理学の進歩を背景に超高感度な「量子マグネトメーター」を続々と開発しています。
量子センサーの世界では、磁気を測定する精度には「量子限界」という理論的な壁が存在することが広く知られています。
先にも述べたように、量子限界はどんなに精密に測定しても残ってしまう“揺らぎ”に起因するため、それを超えるセンサーは開発できません。
そのためもし鳥類の磁気感覚が量子的な効果を利用する生体量子センサーとして機能している場合、鳥類の磁気を検知する能力は量子限界で行き詰まりになるはずです。
そこで今回、クレタ大学の研究者たちは鳥類の磁気感覚を新たな手法で評価することにしました。
鳥類の磁気感覚は量子限界に達している
動物の磁気感覚は量子限界に驚くほど近い性能を持つ / Credit:Canva
鳥類の磁気感覚は量子限界に達するほどの性能なのか。
謎を解明するため研究者たちは、「エネルギー分解能限界(ERL: energy resolution limit)」という指標を用いました。
ERLは、センサーが磁場を測定するときの基本的なパラメータであり、理論的にどの程度の精度が実現可能かを示す概念です。
ここでいう「センサー」とは人工の機械だけでなく、動物の体内にある分子や組織も含まれます。
そして研究者たちは、鳥類の磁場を感じ取るために使用すると考えられている、いくつかのメカニズムに対して、エネルギー分解能限界を用いた評価を行いました。
まず1番目に注目されたのが、ラジカル対機構(Radical-pair)です。
これは、網膜などに存在するクリプトクロム(タンパク質)の中で生じる「ラジカル対」という特別な電子状態が、地球磁場によって化学反応の割合をわずかに変化させる仕組みです。
鳥の目の中で、この変化があたかも“視覚情報”のように捉えられるのではないかと考えられています。
2番目に着目されたのはマグネタイト機構(Magnetite)です。
マグネタイト機構は、くちばしや頭部などに微量に含まれる磁性鉱物が関わる仕組みと考えられており、磁石と同じ性質をもつ物質が地球磁場の力を受けることで、わずかに動くような感覚が神経へ伝わり、方角を感じ取るのではないかという考え方です。
これは、いわば体内に小さなコンパスの針があるイメージに近いといえます。
3番目に近年注目されているのが、MagR機構です。
これは、鉄を含むタンパク質「MagR」とクリプトクロムが複合体を作って協力し合うことで、磁場を感知する仕組みとされています。
この機構もラジカル対機構と同様に網膜に存在すると考えられています。
ラジカル対機構とマグネタイト機構の両方の要素を兼ね備えた“ハイブリッド”として位置付ける研究者もおり、実験的な検証が進められています。
4番目に検討されたのが、誘導(Induction)機構です。
これは磁場の変化を直接電気信号として読み取る方法として知られており、魚の仲間やハトなどは、磁場変化による微弱な電気的な変化が神経インパルスとして脳に伝わる可能性があります。
(※今回の研究は「特定の1種類の鳥」ではなく、鳥類全般に関わる理論的な分析が中心です。論文内では、ヨーロッパコマドリ(European robin)など磁気覚研究の代表的なモデル生物のデータや、これまでに報告されている複数の鳥類の実験結果を引用・参照してはいますが、「○○という1種類の鳥を詳しく調べた」というわけではありません。むしろ、渡り鳥全般やピジョン(ハト)など多様な鳥類に関する研究結果を総合的に扱い、“鳥類に共通する磁気受容メカニズム”としてラジカル対機構やマグネタイト機構、MagR機構などを評価した、理論・モデルベースの解析と考えるとよいでしょう。)
結果、ラジカル対機構とMagR機構はいずれも量子限界に迫る機能を持っている可能性が示されました。
これらの2つの機構がともに網膜にあると考えられることから、鳥たちは網膜を使って方向を決めていると考えられます。
もし人間に同様の仕組みがあった場合、渡りの季節になると目が特定の方向に向いてしまうような症状が起こるかもしれません。
一方、誘導機構は理論的にみても量子限界から遠く、マグネタイト機構は中間的な位置付けといえます。
研究チームはこれを指して「自然界は私たちの想像以上に巧妙なセンサー設計を行なっている可能性がある」とコメントしています。
今回の分析は主に理論的な手法に基づくものですが、「もし自然界でこうした高感度が実現しているとすれば、どのくらいの分子数・どんな配置が必要か」という具体的な目安を与える点で大きな意味を持ちます。
今後、実際の鳥類や他の動物の体内でこれらのメカニズムがどのように働いているのか、さらなる実験的検証が期待されます。
こうした理解が進めば、将来的には生物がもつ高感度センサーをヒントにした革新的な人工マグネトメーターの開発につながるかもしれません。
科学技術だけでなく、動物の行動や進化の謎にも光を当てる重要なステップとなるでしょう。
全ての画像を見る元論文Approaching the Quantum Limit of Energy Resolution in Animal Magnetoreceptionhttps://doi.org/10.1103/PRXLife.3.013004?_gl=1*1lyqyqw*_ga*NDc0MDg5NTkwLjE3MjAzOTI3NTM.*_ga_ZS5V2B2DR1*MTczODcyMDUwNS43Ni4wLjE3Mzg3MjA1MDUuMC4wLjI0MzE2Mjc4Mg..ライター川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。編集者ナゾロジー 編集部...