「オレは6000試合も闘ってきたんだ」「オレは15のトシからこの仕事をやってるんだ」という“語録”を遺した。
“ラウディ”ロディ・パイパーは、1980年代以降、ハルク・ホーガンとアンドレ・ザ・ジャイアントと並びアメリカでもっとも一般的知名度の高いプロレスラーだった。
トレードマークは、スコットランドの民族衣装のキルトとバグパイプ。スコットランドのグラスゴー生まれ、ゲール貴族の末えいを自称したが、じっさいはカナダ出身。
プロレスラーとしてのキャラクターと同じように、パイパーの人生はフィクションとノンフィクションとがつねにごちゃ混ぜになっていた。
父親はスコットランド人で、母親はアイルランド人だというからスコットランド出身という架空のプロフィルは両親のバックグラウンドがヒントになっていたのだろう。
じっさい、パイパーは少年時代の数年間をスコットランドで過ごし、このときに少年少女楽団でパグパイプの演奏を学んだのだという。
家族とともにカナダ・トロントに戻ったのはパイパーが10代になってからで、警察官だった父親とうまくやっていけずロディ少年は12歳で家を出た(とされる)。
“12歳で家出”というプロフィルはあくまでもパイパー自身のコメントによるものだが、ほんとうは15歳だったかもしれないし、18歳だったかもしれない。
生年月日については“1950年”“195
...more2年”“1954年”の3つの説があったが、後年、1954年が正しいデータであったことが判明した。
どうやら、パイパーは若手時代、プロフィル上の年齢をじっさいよりもちょっとだけ上にして“自己申告”していた。ナメられたくなかったのだろう。
15歳から18歳までの経歴については“空欄”になっているが「ウィニペグのユースホステルに住み込みで働きながらプロボクサーをめざしてトレーニングを積んでいた」というストーリーが信ぴょう性が高い。
プロレスラーとしての最初の試合は1972年で、マニトバ州ウィニペグでラリー・ヘニング――“ミスター・パーフェクト”カート・ヘニングの父親で、カーティス・アクセルの祖父――と闘い、25ドルのファイトマネーを手にしたとされる。
“家出少年”だったパイパーが安住の地として腰を落ち着けたのはオレゴン州ポートランドだった。
オレゴンは無名時代に初めてプロレスラーとしてメシを食えるようになった土地で、プロモーターのドン・オーエンDon Owenはパイパーにとって父親のような存在だった。
“スコットランドからやって来たバグパイプ吹き”パイパーがロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムに登場したのは1975年。
パイパーというリングネームの由来はバグパイプのパイプ=管で、ロディは本名ロドニックの愛称。
リングコスチュームはもちろんスコットランドの民族衣装キルトで、タイツもリングシューズもスコットランドのタータンチェックといういでたちだった。
1970年代のロサンゼルス地区(マイク・ラベールMike LeBell代表)は、フレッド・ブラッシーが主役だったWWAが崩壊(1968年)したあとのNWA加盟団体時代で、アメリカとメキシコと日本の中継地点のようなテリトリーだった。
パイパーはロサンゼルス地区認定アメリカス王者、同アメリカス・タッグ王者として活躍し、WWEジュニアヘビー級王者時代の藤波辰爾ともオリンピック・オーデトリアムで2回、対戦した(1978年1月28日と1979年1月11日)。
パイパーは、のちにWWEスーパースターとして一時代を築いたジミー・スヌーカ、リッキー・スティムボート、ポール・オーンドーフらがそうであったように、1970年代の終わりから1980年代前半にかけてNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーション=ノースカロライナ州シャーロット)、NWAジョージア地区(オレイ・アンダーソンOle Anderson派)を長期サーキットした。
ノースカロライナ時代のパイパーのライバルは同世代――といってもフレアーのほうが5歳年上――のリック・フレアーで、ふたりはNWA・USヘビー級王座を“キャッチボール”する関係だった。
1980年代前半、アトランタのローカルUHF局だったWTCG(ターナー・コミュニケーション・グループ)が衛星チャンネル&ケーブル局WTBS(ターナー・ブロードキャスティング・システムズ)に模様替えした。
それまでジョージアのローカル番組だった“ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング”が“ワールド・チャンピオンシップ・レスリング”にアップグレードされた。
ケーブルテレビという新しいメディアによるプロレス番組の全米中継時代のはじまりだった。
パイパーは、新番組のなかでトーク・コーナー“パイパーズ・ピット”のホスト役をつとめた。現役レスラー兼“ヒールの解説者”というコンセプトを発明したのはパイパーだった。
ビンス・マクマホンは、パイパーのタレント性に目をつけた。1984年にスタートしたWWEの全米マーケット進出計画のキーパーソンズは、ベビーフェースの主人公がハルク・ホーガンで、ヒール・サイドのスポークスパーソンがパイパー。これが“マクマホン新体制”の基本コンセプトだった。
WWEは週5本のテレビ番組を自社製作し、まだ広告収入の低かった全米各地のケーブル局やローカル・チャンネルから放送時間をブロックで買い上げ、これらの番組を毎晩のようにアメリカじゅうに流しつづけた。
“スカートをはいたヘンなプロレスラー”パイパーは、アメリカでもっとも露出度の高いトレンド・アクトに変身した。
パイパーとビンスがいつも“いい関係”にあったかというとそうではなかった。
“ロディ・パイパー”というリングネームの版権・著作権と知的所有権、キャラクター・グッズの肖像権と印税のパーセンテージ契約をめぐり何年かにいちどずつ大ゲンカをくり返した。
ビンスはあくまでも“ロディ・パイパー”をWWEの登録商標ととらえ、パイパーはパイパーで「オレは15のトシからこの名前で通ってる」と主張した。
これとまったく同じ問題は、それから20年後にもビンスと“ストーンコールド”スティーブ・オースチンのあいだでも持ち上がった。
パイパーは、ビンスに対して孤独な“ストライキ”を挑んだ。アクション俳優への転向を試み、映画『ゼイリブ』をはじめ、何作かのB級ホラー作品、B級アクション作品に主演した。しかし、休業‐引退宣言をするたびにけっきょくはリングに舞い戻ってきた。
プロレスラーに引退はないのだろう。これはひとつの真理といっていい。テッド・ターナー新体制との対立でWCWを退団したリック・フレアーがWWEに移籍してくると(1991年9月)、パイパーはみずからすすんでフレアーの“ケンカ相手”を買って出た。
それは青春時代のリメークのようなワンシーンだった。フレアーは1年半だけWWEに“滞在”し、NWAの流れをくむWCWへUターンしていった。パイパーもまた休業宣言してリングから消えた。
パイパーはその後も何度かの復帰‐引退‐復帰をくり返した。
WWEでのパイパーの“隠れた名勝負”としていまも語りつがれている試合は“レッスルマニア8”(1992年4月5日=フージャー・ドーム)でのブレット・ハートとのインターコンチネンタル選手権。
1990年代後半にWWEの主役となるブレットにとっては、WWEでの初のシングル王座獲得となった一戦。パイパーとブレットの“存在感”の闘いだった。
WWE“マンデーナイト・ロウ”(USAネットワーク)とWCW“マンデー・ナイトロ”(TNTターナー・ネットワーク・テレビジョン)の“月曜TV戦争”がスタートすると、40代になったパイパーは1996年、ライバルWCWと契約を結び、南部アトランタでホーガン、フレアーらと再会を果たした。
WCWは1980年代的な“プロレス興行”と1990年代的な“プロレス映像”が同居する空間だった。
パイパーがターナー社と交わした契約書には“クリエイティブ・コントロール”という条項が記載されていた。
これはパイパーが“ナイトロ”をはじめとするWCW制作のTVショーに出演するさいの条件で、パイパーの登場シーンにおける“番組内容”はパイパー自身がプロデューサーとしての権限を有するという特別な契約になっていた。
パイパーはひとつのカテゴリーに分類することのできない不思議なレスラーだった。
レスリングのテクニックで観客を魅了するタ...
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初代ポロが1975年にデビューしてからの世界累計販売台数は1400万台超! まさにベストセラーカーだが、昨年6月に約8年ぶりに刷新、6代目となった。新型ポロは今月2日から日本での発売も始まっているが、その最強モデルであるポロGTIにフランスのニースで試乗したのでレポートしたい。と、その前に言いたいのは、ポロの新型、実はノーマルモデルもスゴい。 ポロといえばセグメント的にはBセグメントに属する。日本のコンパクトカーでいうと、ヴィッツやフィット、スイフトなどと同クラス。だが、新型ポロの完成度の高さは、1クラス上と比べるべきでは?と思えるほどの出来なのだ。 というのも、新型ポロはVW(フォルクスワーゲン)の新世代アーキテクチャーである「MQB(モジュラー・トランスバース・マトリックス)」を用いており、ありとあらゆる部分の完成度が非常に高い。例えば内外装は写真のとおりで、外装は精緻なキャラクターラインが多数入り、いかに高い技術でパネルが造られたかがわかる。そしてインテリアでは、ダッシュボードには上級車と同じソフトパッドが奢(おご)られるほか、細かいメッキパーツまでもが徹底して高品質なのだ。 そして走りだすとこれが圧巻! 乗り心地がとても良く、上級クラスを彷彿(ほうふつ)とさせる。落ち着きすら感じるレベルだ。加えて
...more静粛性も極めて高い。ノーマルモデルの時点で新型ポロは、「もはやゴルフを超えたかも?」と思えるほどだった。 そんな圧倒的な進化を見せつけた新型ポロ。その最強モデルであるGTIの内外装をチェックすると、VWのGTIらしい要素がそこかしこにあふれている。例えば外装では、フロントグリル、テールゲートにはGTIのロゴが与えられ、さらにフロントフェンダーにもエンブレムが備わる。フロントグリルからヘッドライトの中までを貫く赤いストライプもGTI流だ。 内装では、GTIの伝統であるチェック柄のシートをはじめ、赤いステッチが随所に与えられる。印象的なのはダッシュボードのパネルで、つや消しの赤いパネルが目の前にドーンと置かれて印象的だ。 いざ乗り込むと、目の前には液晶の美しい画面に各種メーターがオープニング画面的に浮かび上がる演出まであるのだ。しかも、スターターボタンを押してエンジンを始動すると、ポロGTIの室内が本当に静かなことに驚かされる。 そして今回のポロGTIで最大のトピックは、搭載エンジンがついに2リットルの排気量を持つ直列4気筒直噴ターボのTSIを採用したことだ。今回のエンジンは現在のゴルフGTIに搭載されるものよりも新世代となる。 最高出力は200馬力。トランスミッションは6速DSGだったが、今後は6速MTも投入されるという。そして現在の6速DSGとの組み合わせで、100キロ到達を6.7秒でこなし、最高速は237キロに達する。それでいて燃費性能は欧州複合モードで16.9km/リットルを実現。かなり燃費にも優れているのだ。 走りだしてまず印象的なのは、静粛性の高さだ。現行型のゴルフと同等以上のレベルにあると感じられた。またGTIだけに装着タイヤはスポーツ系のミシュラン・パイロットスポーツ4だ。サイズは215/40R18(ついにポロGTIに18インチが装着される時代になった!)にもかかわらず、ロードノイズの侵入が極小なのは、やはりMQBの功績が大きいだろう。 乗り心地も実に素晴らしい。GTIだけにスポーツサスペンションを装着するが乗り心地は良く、日常域でも不満なく使える。今回の試乗車はさらに、オプションで用意されるアダプティブダンパーを備えたスポーツセレクト仕様。これは電子制御式減衰力調整ダンパーで車高は15mm低く設定されている。 さらにゴルフGTIと同様、高速でコーナリングした際にトラクション性能を最適化する電子制御ディファレンシャルロックXDSを標準装備。アンダーステアを回避するから攻めていても安心感がある。 エンジンの印象は力強く頼もしく、どの回転からでも望むだけの力が手に入る。実際、高速巡航もわずかにアクセルに足を乗せているだけであった。 それにしても新型ポロGTIの出来の良さには舌を巻いた。これが発売されたら、ゴルフGTIは必要ないかも?と一瞬思ったが、そこはVWだ。ポロを凌駕(りょうが)する、もっとスゴい新型ゴルフGTIが登場するはず。 ちなみにポロGTIの日本導入は、今年後半になる予定だ。 ●河口まなぶ1970年生まれ、茨城県出身。日本大学藝術学部文芸学科卒業後、自動車雑誌(モーターマガジン社)アルバイトを経て自動車ジャーナリスト。毎週金曜22時からYouTube LIVEにて司会を務める『LOVECARS!TV!』がオンエア中。02年から日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。 【関連記事】・フルモデルチェンジした4代目・ルノーメガーヌが洗練された佇まいに進化!・BMWとのコラボで16年ぶりに復活、新型スープラの全貌を開発責任者に直撃!・プレミアムSUVとして話題! 4年ぶりに「日本・カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞した新型・ボルボXC60の実力は?・年間6万台超を販売、ホンダの超人気コンパクトSUV・ヴェゼルがマイナーチェンジで大変身!・最強の顔面と最高の2列目を持つ新型アルファード登場――デザインテーマは「豪華勇壮」!...
俳優の新田真剣佑(21)が17日、都内で行われた映画『OVER DRIVE』(6月1日公開)のスペシャルステージに出席。“今だから言える話”として、新田のライバル役を演じ、普段から親交のある北村匠海(20)から、撮影中もストイックに筋肉トレーニングに励んでいたことを暴露された。
【写真】仲良し♪自撮りする真剣佑らキャスト
新田演じる天才ドライバーのライバルを演じた北村は、新田に脱帽したというエピソードとして「共演できるのがうれしかったけれど、肉体もガッチリ鍛えているって聞いたので、僕も当時から5キロくらい増やして負けないよう頑張ったんです。でも、いざ現場に行ったらこんな(筋肉のついた)真剣佑がきて、そこで第1脱帽しました」と驚き。続けて、「劇中で3回くらい真剣佑が肉体を披露するシーンがあって、そのためにやってきたストイックさがすごい」と熱弁し、森川葵(22)が撮影した現場で筋トレする新田の写真が公開され、観客からどよめきが起こった。
新田は「寝て起きたらこの体になっていた」と照れ隠ししていたが、その後も羽住英一郎監督(52)から「ドライビングスーツの採寸のときに、体にタオルを巻いて採寸して『これくらいになるので』って。結果、本当にその体にしてきました」、森川からも「ほとんどずーっと(筋トレ)していた」と、続々ストイックな一面が報告された。
同作は、公道をアクセル全開
...moreで駆け抜ける自動車競技「ラリー」を舞台に、若者たちの勝利への闘いと絆を描く。東出昌大(30)が主演を務め、新田、森川、北村、町田啓太(27)、要潤(37)らが共演する。
東出は「200%人に勧められる映画になった」と胸を張り、弟役の新田も「このメンバーで撮影して、終わった後は兄貴(東出)が僕の部屋に来ていろんな話をしたり、監督と焼肉屋さんでこの作品を話しながら号泣した」と熱い撮影を振り返っていた。
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東出昌大主演『寝ても覚めても』 カンヌ映画祭コンペ部門に出品決定 (18年04月12日)
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ライブコマースプラットフォーム「PinQul(ピンクル)」を提供するFlattは4月17日、7人の個人投資家を引受先とする第三者割当増資により総額2700万円を調達したことを明らかにした。
今回のラウンドに参加したのは、Fablic代表取締役CEOの堀井翔太氏、メルペイ代表取締役の青柳直樹氏、個人投資家の三木寛文氏を含む7人。Flattでは2017年5月にもヘイ代表取締役社長の佐藤裕介氏やペロリ創業者の中川綾太郎氏らから数百万円を調達。同社に出資する個人投資家は合計で11人になったという。
今回調達した資金を元に取り扱い商材の拡大、インフルエンサーの起用、流通の最適化に加え、関連サービスの新規開発やWeb版の開発を進める。
Flattの創業メンバー。左からCCOの豊田恵二郎氏、代表取締役CEO の井手康貴氏、COOの綾部翔太氏、エンジニアリングマネージャー の町田公佑氏
ユーザーとの接触数を増やすための“メディア性”がキモ
冒頭でも触れたとおり、PinQulはインフルエンサーがライブ配信をしながらお気に入りの商品を販売できる、ライブコマースプラットフォームだ。ライブコマースは中国で一足早く普及し、2017年の1年間で日本でも一気に広がった。2018年に入ってもKDDIとエブリーが共同で事業開発に取り組むと発表するなど、すでに複数の企業が新規で参入。引き続き注
...more目を集める市場になりそうだ。
PinQulの正式リリースは2017年の10月。コアなファンを抱える「マイクロインフルエンサー」を地道に開拓し、限られた配信者のみがライブ配信をできる仕組みとして運営してきた。11月中旬からはプライベートブランド「P.Q. by PinQul」を提供、2018年2月にはTOKYO BASEが手がける新ブランドのライブ販売を実施。合わせてPinQulを活用したい企業のサポートや、配信者の公募も始めている。
Flattの代表取締役CEOを務める井手康貴氏によると、プロダクトリリースからの約半年間は最低限の仮説検証のため、さまざまなことに取り組む期間だったという。今回の資金調達はその結果をもとに一層アクセルを踏むためのものだといえそうだ。
「ライブコマースについて良い点も悪い点も明確に見えてきた。悪かった点は改善しつつ、今後は取り扱い商材の拡大やインフルエンサーの起用を継続しながら関連サービスの新規開発にも取り組み、事業の拡大を目指していく」(井手氏)
井手氏の話では今後のPinQulで特に重要テーマとなるのが「接触数、視聴数を増やすための場所の確立」だ。配信ごとのCVR(購入率)やPBの売り上げが順調な一方で、ライブ配信だけではユーザーとの接点が限られる。今後スケールさせていく上では、いかにユーザーと接触する機会を増やし、PinQulへ誘導できるかがキモになる。
「最初はアーカイブ動画をコンテンツとして残しておくことで接触数を増やせるのではないかと考えていたが、実際はあまり上手く機能しなかった。今は別の手段でメディア性をもたせることを考えている。具体的には常に見ていて楽しいコンテンツをアプリ内もしくは外部のプラットフォームとして育て、相性のいいものをライブで扱うといったスキームだ」(井手氏)
Flattでは最近PinQulのAndroid版をリリースし、現在はWeb版の開発にも取り組んでいる。同時にサイトの設計も商品情報をベースとした「ECっぽい感じのUI」に変えていく予定。あくまでも軸はコマースの部分におきつつもメディア性を加え、その中で最適なライブの見せ方を模索していくという。
企業との取り組みを強化しキャッシュポイントを作る
またキャッシュポイントを作るという観点では、今後法人との取り組みも一層強化する方針。キーワードになりそうなのはリアル店舗とPBだ。
「日本のEC化率はまだまだ今後伸びる余地がある中で、リアルも含めた購買行動の設計を考えている。ポップアップショップにライブコマースとインフルエンサーを絡めた取り組みなど、具体的に話を進めている段階だ」
「扱う商品としては既存の商品よりもPBに注力していく。たとえばYouTuberなど影響力のあるインフルエンサーとPBの相性がいいことはわかっている。今後は『PBの請負人』のような形で、インフルエンサーがオリジナルの商品を作って売りたいと思った際に選ばれるポジションもとっていきたい」(井手氏)
最近資金調達をした「ShopShops」のように、配信者がブランドの店舗でライブコマースを行うというプロダクトも海外では登場し始めている。これはあくまで例にすぎないが、リアル店舗×ライブコマースという切り口はまだまだ発展の余地がありそうだ。
今回井手氏の話の中で、Flattとして将来的にはコマース領域以外でも複数の事業を展開し、多角化を図っていきたいという話もあった。とはいえまずはEコマースに注力し「10年以内にEコマースで最大のプラットフォームになる」ことを目指していくという。...